不雨花猶落 無風絮自飛

禅 語

更新日 2011/04/01
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不雨花猶落 無風絮自飛
(槐安国語)
あめならずしてはななおおつ
かぜなくしていとおのずからとぶ

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

 「(いと)」とは柳の木に付くネコの尾のような花のことで、またこれを“いと”ともいいます。雨は降らねど、やはり花は散っていきます。風は吹かずとも、柳の絮は自然に飛んでいきます。咲いた花は必ずしも雨や風のために散るとは限りません。咲いたからには、いつかは散らねばなりません。
 この句は、そういう“生”あるものの定めを、花の散る風景に託して私たちに語っています。
 仏教では(もちろん禅でも)、諸行無常ということをよくいいます。「諸行」とは遷流(せんる)のこと、存在するすべてのものが移り変わる意。「無常」とは、常のないこと、固定のないことですから、諸行無常とは、言ってみれば一切の万物は皆な生滅(しょうめつ)を繰り返し、常住不変のものは何一つないことを意味します。「花猶お落つ」「絮自ずから飛ぶ」、無常の故に私たちはそこに惜別の情が生じ、悲哀の情を禁じ得ないのです。
 『平家物語』の名文を思い出します。


祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

 また、鴨長明の『方丈記』にも、


主人(あるじ)住家(すみか)と、無常を争ひ去るさま、いはば朝顔の露のことならず。或いは露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし。

と、無常の哀しさを切々と述べています。
 花の散り方にもか種々あります。蕾のまま散る花もあり、咲ききって花びら一つ残さず散る花もあります。人の死に方にも種々あります。天災はもとより、自己の人災で死ぬ人もあります。ポックリ死んでいく人もあれば、悶え苦しんで死んでいく人もあります。
 私たちも、いつ、どんな形で死がやってくるかもしれません。それを恐れてビクビクしていては、詮ないことです。
 人生といっても確実に把握できるのは、即今、此所、自分の一点だけです。この一点に全力投球して生きていけば、たとえどんな死に方でも納得できるのではないでしょうか。つまり充実した人生を送ることが、風無きに絮飛び、雨ならざるに花の散る至福の死に至るのです。


昨日は既に飛び去った鳥である
クヨクヨ思いまどうまい
明日は未だ捕えぬ鳥である
取り越し苦労はせぬがよい
今日! 今日こそは確かに捕えた鳥である
捕えた鳥だ 殺しちゃならぬ
そうだ 今日をトコトン活かせ
己の使命を完全に果し
今日のこの日を意義あらしめよ
今夜死んでも笑って死ねる
そうした価値ある今日たらしめよ
(花園文庫弟八集『柳緑花紅』中島義観「一大事と申すは今日只今の心なり」妙心寺派宗務本所より)

 価値ある今日の一点の連続が一生を構成するのです。今日の一日が欠けたら、自分の一生を失ってしまいます。
 徳川家康と関ケ原で戦って敗れた石田三成は、生け捕りにされます。打首の刑に処せられるために唐丸籠に乗せられて京都に護送されます。その途中、三成はたいへん渇きを覚えて、「咽喉(のど)が渇くから湯を飲ませてくれ」と役人に頼みます。役人は、「途中であるのでそんなことはできない。幸いここに柿があるので、これをあげよう。これを食べれば少しは渇きが止まるだろう」と親切に一個の柿を差し出します。と三成は、「柿はいらぬ、(ぜんそく)に悪いから私は食わぬ」と拒否します。役人たちは笑って、「今、京都に首を()ねられにゆくことを知っているのだろう。もう貴様の命もあとわずか、それなのに柿は痰の毒になるから食べぬというのはおかしいではないか」といいます。しかし三成は、「たとえ目前に死が迫っていようとも、一瞬一瞬(いっときいっとき)を大切に生きるのだ」と答えたといわれています。
 首を刎ねられ三日間も晒し首にされるような死に方をしても、三成自身は真実、充実した人生を送ったと満足していたのではないでしょうか。もし三成がこの句を知っていたならば、恐らく首を刎ねられるとき、「雨ならずして花()お落つ、風無くして絮自ずから飛ぶ」と静かに吟じて、死についたのではないでしょうか。
 私たちも、花なお落ち、絮自ずから飛ぶ時節がやってくるかもしれません。用心!用心!