―水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ―(『五祖法演語録』中)
大空に輝くたった一つの月も、手で水を掬えば手の中にすることができる。一本の菊の花でも手に持って楽しめば、その香りが衣服に染み込んでくる。たった一つの真理も、みんなの手にすることができるということ。
誰かの句に、「明月は 馬も夜道を 好みけり」というのがある。馬の眼にさえも、明月の素晴らしい明るさが届くのであろうか。「明月や 池をめぐりて 夜もすがら」というのもある。こちらは月を愛でる人の、飽くなき詩情である。
江戸の国学者塙保己一が門人を集めて月見の宴を張った。盲人であった彼は、月を眺める人々の楽しげな声を聞いて、「花ならば 手にとりて見ん 今日の月」と詠んだ。傍にいた夫人が、「明月は 座頭の妻の 泣く夜かな」と受けたという。なんという二人の意気投合した詩境であろう。
法然上人の歌に、「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」というのがある。この素晴らしい歌は、そのまま大阪の浄土宗門立上宮高校の校歌になっていることを、甲子園で聴いて感動した。
「菩薩清涼の月、畢竟空に遊ぶ。菩提の心水清ければ、影中に現ず」と経典にある。秋の夜の中天にかかる明月が、見えないところは地球上の何処にもない。「水を掬すれば月手に在り」というように、水を掬えば、誰の手にも月が映る。真如の月はどんな凡人も、これを手にすることができるのだ。
ただそのために一つの条件がある。それは自分で月を眺めることである。月を嫌う人は一人もいない。しかし家の中でテレビを視ているものに、あの皓々として輝く月は縁遠く、その心がますます汚されていくのは、悲しいことではないか。