禅語

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三世諸佛不知有 狸奴白牯却知有 さんぜしょぶつあるをしらず りぬびゃっこかえってあるをしる

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

12月を表す季節の画像

―三世諸仏有るを知らず、狸奴白牯(りぬびゃっこ)却って有るを知る―(『碧巌録』六十一則)

「この世界に〝真実なもの〟があることは、三世(過去・現在・未来)に現われる仏たちでさえ気づかないが、むしろ狸や牛のような畜生の方がよく知っているぞ」という、中国唐代の禅僧・南泉普願(なんせんふがん)和尚の有名な語である。仏法が分かる者よりも、仏法が分からない者の方が、かえって仏の智慧を持っているという、逆説的な教えである。この教えは「異類中行(いるいちゅうぎょう)」と言われ、南泉やその弟子である趙州和尚の深い思想として尊ばれている。

エデンの園で純真無垢に戯れていたアダムとイヴは、サタンに(そそのか)されて「禁断の知恵の実」に手を出し、罪人となってエデンの園を追いだされた。これが人類の祖であると、『旧約聖書』の創世記に書いてある。
アダムとイヴは知恵の実を食べると、自分と他人の区別に気がつき、お互いに急に恥ずかしくなって無花果の葉っぱで前を隠した。いらい人間は自分を自覚し、眼の前にあるものを自分以外のものとして区別するようになった。これが仏教で言う「分別」の始まりである。こうしてもともとは一体であるものを自と他に分けるのである。分けることによって「分かる」のだが、分かるときはもう、それ自体から「分かれ」ているのである。
さらにまた物を判断するとき、いくら客観的に見ると言っても、「観」という字がつく以上は、自分の判断である。こうして人間はお城のような「自我」を持ち、自我の窓から世界を見渡す。いわゆる遠近法的な見方で、近い物は大きく、遠い物は小さく見えるのだが、これは世界の正確な判断ではなく、「自己中心的」な歪んだ判断である。
人間はこうして手前勝手な判断で生きている。そこへいくと犬や猫たちの判断は、自己中心ということがないだけに、世界を正しく判断していることになる。
冒頭の禅語は、「黄梅山に七百人も高僧がいたが、彼らには分からないことを、一字も知らない狸や牛が知っている」という南泉のことばである。現代世界が頭のよい人間によってどれほど汚されているか、いちど動物たちに聞いてみたらどうであろう。