足元を見て歩く

禅 語

更新日 2013/01/01
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足元を見て歩く
看脚下。

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

―脚下を看よ―(『大慧語録』七)

仏陀の心を伝える教えは、人から得るものではない。では人から得られないときはどうすればいいかという問いに対しては、「脚もとを看よ」というほかはない、ということ。


 禅寺の玄関を入ると、よく「照顧脚下」と書いてある。この場合は、きちんと下駄を揃えて上がれという、日常生活の行儀のことである。履きものさえきちんと揃えられないようでは、家の中も乱雑である証拠である。
 部屋の前のスリッパが、向こう向きにきちっと揃えてあるのを見れば、中にどんな人がいるかは見なくても分かる。履きものに注意を払わないような人は、一事が万事において乱れた人として間違いない。
 身体で一番大事なところは何処かといえば、大概の人は頭を指すであろう。しかし禅から見れば、「一人ひとりの足下に、自分が存在するだけの十分な場がある」(「人人脚跟下、一坐具の地あり」)のだから、脚下こそが自分の存在根拠である。また人生も、「一足一足着実に歩いていかなければならない」(脚、実地を踏む)というように歩を運ばないと、頭が先走っては、ふらふらと倒れてしまう。
 もともと眼は遠くを見ようとするものであり、あまり足元ばかり見つめていても、方向を間違ってしまうから気をつけなければならないが、昔から大きな岩にぶつかった人はいない譬え。うっかり小さな石ころに躓いてアキレス腱を切ったりする方が危険なのだ。
 人生の道においても、人は見え透いた危険や災難を知って近づく人はいないであろう。それなのに思わぬ災難にであうのは、やはり足元に対する気の緩みからであろう。逆風の時は誰しもしっかりと帆を張るであろう。しかし「順風に帆を張る」ことこそ、もっと大切だと、禅は教えている。