「浅はかな人は、すぐに質問したがる」
―問う者親しからず、親しき者は問わず―(『伝灯録』七、大梅法常章)
十分に考えもせず、直ぐに質問をする人間は、本当に悩んでいない。本当に悩んでいるものは、何を問うてよいのかもさえ分からないはずだ。
大学の教壇に立っている頃、毎時間のように質問する学生がいた。その態度はいちおう熱心に見えるので、教師としてはそれなりの期待を掛けるのだが、定期試験の結果を見るとさっぱりで、ガッカリさせられたものだ。そこで分かったことは、軽率に質問する学生は格好いいだけで実は何も分かっていない、ということであった。
あちこちへ講演にいくと、講演のあとで司会者が、何か質問はありませんかと言う。なかなか核心を突いた好い質問だと感心するようなものはほとんどない。結局、話の内容にそれほどの値打ちがなかったか、あるいは取りつく島もないような話であったか、のどちらかであろう。
人生上の深刻な悩みに取りつかれた人ならば、何をどのように尋ねていいのか分からないのであり、宗教というものはたいていそういう人のためのもので、興味半分で質問するような人のためにあるのではない。そういう人の質問を聞いていると、まるで他人事のようで、まったく切実性というものが感じられない。
本当の質問は、禅では「大疑団」というように、身体が疑問の固まりで、白々しく問うこともできないような主体的な問いでなければなるまい。ここに挙げた禅語は、一人の僧が「生死の中に仏無ければ、即ち生死に非ず」と言い、もう一人の僧は、「生死の中に仏有れば、即ち生死に迷わず」と言って、両者のあいだに結着がつかなかったとき、これを聞いた大梅法常という和尚が吐いた一句である。そのようなことで何だかんだ言っているようでは、君たちの疑問はまだまだ本物ではない。本当の疑問というものは、他人に向かって問うことさえできないような深いものだ、ということであろう。教訓であろう。