慧玄這裡無生死

禅 語

更新日 2014/08/01
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慧玄這裡無生死
えげんがしゃりにしょうじなし

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

「私は死なない」という死に方

―慧玄が這裡に生死無し―(『正法山六祖伝』開山関山玄禅師章)


ある僧が関山の庵(現在の妙心寺)にやってきて、「私は〝生死事大、無常迅速〟と気づき、一日も早く人生に決着をつけたくて、和尚の処に参りました」と言った。そのとたん関山は、「ワシのところに生死などはない」と言って、棒をもって追い出したという。生きるときは生きる死ぬときは死ぬだけの話、それをああだこうだというのは凡人の浅ましさだということ。

 禅宗では、人生をどう生きるかという課題を、人間として決着すべき最大のテーマとしている。しかも時の過ぎるのはあっという間である。課題の重大さと、解決のための時間の短さが、求道の道へと駆り立てるのである。
 関山がそういう真摯な修行を拒否したのは何故か。われわれはここに関山の深い慈悲心を見抜かなければならない。安易に道を求める者には、答えを拒否し、問いを相手自身に突き返してやる親切である。
 前の禅語では、「生死の中に」仏があるかないかの問題であった。今度は最初から「生死無し」である。これはいったい何を意味するのであろうか。妙心寺六百五十年を通じての公案であろう。
 恩師久松真一先生は生前、「私には煩悩はありません」と言われた。普通の者が聞いたら啞然とするであろう。よくそのような傲慢なことが言えたものだとさえ、訝しく思うであろう。
 しかし、先生は煩悩を受け入れ、煩悩の只中に生きられたので、退治すべき煩悩等はなかったのであろう。先生が亡くなったとき、私は高弟の藤吉慈海先生に、お悔やみを申し上げた。すると先生は即座に、「先生は死んでおられません」と言われた。久松先生の生は死とともにあったので、わざわざ死ぬことはなかったのであろうか。
 「生死無し」ということは、生も死も無いということではない。生と死が別ものではないということで、生は生、死は死という絶対性において、一つのものだということであろう。