禅語

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早知今日事悔不慎当初 はやくきょうのことをしらば、とうしょをつつしまざるをくゆ

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

02月を表す季節の画像

もっと早くに気づいていれば

―早く今日の事を知らば、当初を慎まざるを悔ゆ―(『天聖広灯録』十五、風穴延沼章)

僧が風穴和尚に、「お歳は幾つですか」と尋ねると、「ワシは七十三歳じゃ」と答えられた。「それはまたご高齢なのですね」と言うと、和尚が「今日こんなことになるのだったら、初めに気をつけるべきであったのに」と言われた。和尚は本当に後悔して言われたのか、あるいは自分の人生に満足して言われたのか。

何につけても事を行なうには、出発点が大切である。出発の時点で目的と方法をしっかりセットしておけば、あとは手放しでもよいのだ。
 ボタンの掛け違いということがある。沢山のボタンのある服を着るとき、不注意に初めの穴を間違えてボタンを掛けていくと、最後の土壇場でボタンの穴がなくなり、また初めからやり直しという苦い経験をした人は、少なくないであろう。
 困ったことは、その間違いが途中では分からなかったということだ。途中で気づけば直ぐにやり直せばいいのだが、途中では間違いに気づくことがない。最後にならないと間違いが分からないというのだから、なんとも悔しい話ではある。
 私の少年の頃はまだ、今のようなアルミサッシというものがなかった。それで毎朝、前の晩立てた本堂や庫裡の雨戸を、何十枚と元の戸袋に戻すのだが、十五、六の小僧にとっては、それは嫌な日課であった。
 それで嫌々ながら、雨戸を一枚一枚と戸袋へ片づけるのだが、最初の一枚をしっかり奥の方へ仕舞っておかないと、最後の一枚がどうしても入らないという事態を招く。そしてまた十枚の雨戸を全部引き出して初めからやり直しとなるのだが、これほど悔しいことはなかった。
 何でも最初が大事だということを、こうして私は体得したように思う。社会人として世に出るときも、自分の進むべき道をしっかり定めて出発しないと、とんでもない結果を招いてしまうことになるであろう。