一片月生海、幾家人上楼

禅 語

更新日 2015/10/01
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一片月生海、幾家人上楼
いっぺんのつきうみにしょうずれば、いくかのひとろうにのぼる

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

人類の教師と仰がれる人たち

―一片の月海に生ずれば、幾家の人楼に上る―(『仏国録』)
 
 
月が海の彼方の地平線から昇ると、人々が待っていたように月見の台に上って眺める。たった一人の悟りを開いた高徳の人が現われることによって、世界中の人々が救われるという、人間の力の素晴らしさを讃えた語。
 人間世界にも、闇夜を照らす月のような人がいる。釈迦やキリスト、孔子やソクラテスがそれであり、彼らは同時代の人々にとって光明であった。それいらい現代に到るまで、彼らは「人類の教師」として世界中の人に仰がれ続けている。
 現代哲学者のK・ヤスパースは、その著『歴史の起源と目的』のなかで、これらの教師たちが現われた時代が、奇しくも紀元前五世紀に集中していることに注目し、それはまさに人類の歴史における「軸の時代」と呼ぶべきだと書いている。
 その後、人類の歴史を通じて彼らのような偉人が現われず、われわれは今もなお仏教やキリスト教、あるいは儒教や道教の教え、さらにはギリシャ哲学の説くところを、生きる道として仰いでいる。
 もちろんそれぞれの時代には、さまざまな宗教家や社会改革の指導者が現われて、それぞれの仕方で民衆の悩みを救ったが、それらはいずれも基本となる教えを時代状況に反映させたに過ぎないものといえるであろう。
 ところで現代という時代は科学の発展によって、人類がかつて経験したことのない危機状況を産み、このままで行くと地球の破滅と人類の滅亡は必至であるといわれている。こういう未曾有の状況にこそ、救世主の出現が待ち望まれる。
 いま多くの人が地球の危機に対して、遠く光る星のような警告を発している。だが、この地球の暗黒を照らす救世主は、月のようにただ一人あれば十分なのだ。