擔雪填河

禅 語

更新日 2016/01/01
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擔雪填河
ゆきをになって、かわをうずむ

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

好んで無駄な努力をせよ

  
雪を擔って河を填む―(『雪竇語録』五)

「雪を擔って井を填む」(『従容録』)というのもある。雪を運んできて河や井戸を埋めようとしても、折角の努力は水泡に帰すであろう。それを承知で敢えてするところに、宗教的行為の尊さがあるという教えである。これを「無功徳行」、あるいは「無所得行」と言う。

戦後、日本人の抱いた価値観を、「三利主義」と決めつけた人がある。三利とは、営利、便利、権利の三つを言うらしい。貧困から這い上がった戦後の日本人の関心が、何はさておき利益の追求にあったことは、誰もこれを否定できないであろう。
 お金になることなら手段をえらばず、その金は生活の至便のためにのみ、惜しみなく使われた。やがてどこの家も生活条件が満たされ、中流の生活ができるようになると、今度はみんながさまざまな権利を要求した。
 そのために日本人は勤勉にはたらき、国民総生産は世界第二位という経済大国にまで成長し、世界の人々を驚かせたが、忙しい生活の中で失われたのは「豊かな心」であった。確かに「忙」という字は「心を亡う」と書き、また縦にすると「忘れる」という字になる。まことに恐るべき人間性不在という事態の到来である。
 どのようなことであれ、よからぬ心をもってなされたものは汚れている。純粋に無心になされることは、子供の遊びを見るようで美しい。結果はどうであれ、今の瞬間に命をかけてする姿は、見る者をして感動せしめるのだ。
 滝瓢水の「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」という句は、そういう人間のひとときの美しさを詩っていると思う。どうせ海に飛び込めば、全身ずぶ濡れになってしまうことは分かっている。にもかかわらずそこまでは、蓑を着て浜に向かおうとする海女たちに、作者は人間らしい慎ましさを見たのであろう。目的のためには手段を選ばぬ現代人にはない、美の要素が、そこにはある。