如今放擲西湖裏、下載清風付与誰

禅 語

更新日 2016/05/01
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如今放擲西湖裏、下載清風付与誰
にょこんほうてきせいこのうち
あさいのせいふうたれにかふよせん

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

重荷下ろして、清風を味わおう

  
如今放擲西湖の裏、下載の清風誰にか付与せん―(『碧巌録』四十五則)


今はすべてのものを西湖に捨ててしまった。軽くなって浮かび上がった船に、一陣の清風が吹いてくる。この涼風を誰かに分けてやりたいものだ。悟りを得て、煩悩の煩わしさから完全に解放された人の、爽やかな心境を言う。


徳川家康の遺訓に、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」とあった。まことに人生を送ることは、苦しき事のみ多いものである。誰でもみんな、「一難去ってまた一難」という至難の道を行かねばならないのだ。
 しかしそれだけでは、せっかくの人生も苦労するために生まれてきたようなことになる。われわれはそのような鬱陶しい日々の連続ではなく、一日でも多く楽しい日を送りたいと願う。実際、私たちの周りには、毎日をニコニコとして暮らしている人もいるのだから。
 静岡県三島市に龍澤寺という禅道場がある。そこの師家であった亡き中川宋淵老師に、「花の世に 花のやうなる人ばかり」という句がある。じっさい老師の日々がどれほど清風に満ちたものであったか、知る人は多いであろう。
 もう一つ、禅の布教で有名な松原泰道先生から聞いた話。松原さんはいつも、山田無文老師に随行して、全国の寺を回って歩かれた。行く先々の寺で珍しい土地の土産をもらうから、手荷物はどんどんと増えていくばかり。
 列車に乗るとすぐに、すやすや眠ってしまう無文老師を眺めて、松原さんはつくづく思った。老師はもらった土産を、次の寺に行くとみんな置いてくる。そこの寺の土産は、また次の寺に上げてしまう。だから少しも荷物は増えず、いつも清風颯々して身軽に歩かれる。
 顧みて自分は、帰ると自坊で家人たちが待っている。ついその顔が眼に浮かんで、頂いたものを、全部ぶら下げて歩く。なんという違いであろうか、と。
 人生もまたかくの如く、煩悩の重荷を捨てきった人の歩みは、「歩歩清風起こる」ということになるのであろう。