朝聞道夕死可矣

禅 語

更新日 2017/04/03
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朝聞道夕死可矣
あしたにみちをきかばゆうべにしすともかなり

『無文全集』第13巻「三分間法話」

(山田無文著・2004.3 禅文化研究所)より

 「往年先師大灯国師の所に在りて、此の一段の事に於いて休歇(きゅうけつ)を得たり。特に衣鉢(えはつ)を伝持するの後、報恩謝徳の思(おもい)、興隆仏法の志(こころざし)、寤寐(ごみ)にも忘るること無し」


 これは花園法皇が関山国師に下された、妙心寺を建てよとのお手紙の中の一節であります。
 かつて先師大灯国師のところで、人生問題について、いちおう解決を得させていただいた。ことにその後、仏法の奥義をきわめてお許しを得てからは、どうしてこのご恩返しをしようかという感激と、なんとしてでもこの仏法を盛んにして、あまねく人びとを救わねばならんという志とが、寝ても覚めても忘れられないと仰せられたのであります。こうした感激がなかったら、仏法は興りもしなければ広まりもしないのであります。
 「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という言葉があります。世の中に何がうれしいといって、人間に生まれてきた本当の意味がわかるほど、うれしいことはありません。何が有り難いといって、亡びゆく人間が、亡びざる仏にしてもらうほど有り難いことはありません。それも修行して仏になるのではない。学問をして仏になるのでもない。本来この身このままが仏であると気がつかせてもらうのである。死ぬべき生命が、本当は生死のないものであることを悟らせてもらうのである。罪深き人間が、実は愛と智慧の人格であったとわからせてもらうのである。そんな有り難いことが、この世の中にまたとありましょうか。
 ゲーテは、「人格は地上の子らの最上の幸福なり」と言っておりますが、自分の人格が尊厳であり絶対であることを、はっきりわからせてもらうこと、それ以上の幸福、喜びは人生にないと思います。この喜び、この幸福に人々を導き入れるものが仏法であります。仏祖のよき導きによって、ひとたびこの喜び、この幸福に目覚めさせてもらったならば、どうしてそれが感謝せずにいられましょうか。自分ばかりでなく、あまねく一切の人々を、この幸福、この感激に導かずにおられましょうか。まことに「報恩謝徳の思、興隆仏法の志、寤寐にも忘るること無し」であります。