拈一茎草

禅 語

更新日 2017/06/01
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拈一茎草
いっけいそうをねんず

『無文全集』第14巻「しんじん文庫」
(山田無文著・2004.3 禅文化研究所)より

 華厳の哲学に、「一即一切、一切即一」という言葉がある。
 「一切」はすべての現象であり、「一」は絶対者であり第一原因であり、神であり仏であって、絶対はそのまま相対の諸相であり、差別の万象はそのまま絶対の一であると、一応説明される。
 それは神と人間とが、永久に合一できない次元に置かれてあるという考え方よりは、はるかに進んだものであろう。
 戦争中、「天皇帰一」という言葉がはやったが、一は天皇であり、一切は万民である。天皇が即万民であり、万民が即天皇であると教えられた。この君民一体の思想が、日本精神の哲学でもあった。
 帝王と人民がどこまでも対立的であるヨーロッパ的考え方よりは進んだものであろうけれども、やはり封建思想であることはまぬがれない。
 一切が一である面ばかり強要されて、一が一切である実は少しも示されなかった。
 そこで一は絶対者でも仏でも第一原因でもないし、天皇でもなくて、個々の一でなくてはならぬと考えられる。
 個が一切であり一切が個であることにおいて、事々無礙法界の華厳哲学は展開する。
 指一本が全世界であり、全世界が指一本である。一茎草が全宇宙であり、全宇宙が一茎草であることが、一即一切、一切即一の原理でなくてはならぬ。
 個々の一人に絶対的尊厳を認めることが、民主主義でなければならぬ。そしてその尊厳なる人格の象徴として、天皇のあられることは、歴史ある民族の悦びであり誇りであってもよい。
 かくて、「一人は万人のために、万人は一人のために」、一人ひとりの主権が、万人の幸福のために使用せられなければならない。一人ひとりの正しい動きが、世界を動かす重大な動きであることも、自覚されなければならない。
 「一茎草を拈じて丈六の金身と作し、丈六の金身を拈じて一茎草と作す」ということはこのことであろう。かかる自在なる妙境こそ、人間文化の最高度を表わすものといえる。
 一茎草の金波羅華が、甚深微妙の大説法であることに微笑されるならば、一鉢一鉢の活花が、世界を動かす思想であり、哲学であり宗教であることがわからねばならぬ。