無明

禅 語

更新日 2017/10/02
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無明
むみょう

『和顔 -仏様のような顔で生きよう-』
(山田無文著・2015.11・禅文化研究所)より

「煩悩はあってもよし、なくてもよし」

 無明は実在するものではない、お互いの本性は煩悩なぞあるものではない、スカッとした無心が、空(くう)が本性だとわかれば、煩悩はあってもいいではないか。こう徹すれば、煩悩があるのも、かえって人間味があっていいではありませんか。煩悩があってもよし、なくてもよし、こういう世界が空という世界ではないかと思うのです。


 私どもには、清浄になりきれんものが心の中にどうしてもある。朝起きて秋晴れの空を眺めて、今日は日曜で仕事もなし、何もせんでもいいと、煙草を吸うて、さて何をしようかという時には、無心であってこだわるものは何もないようでありますが、そんな時にもなお心の奥底にこだわるものが一つある。取れんものが一つある。清浄になりきれんものがある。
 それを「無明」というのであります。人間の存在の根底になる根本の煩悩、盲目的本能であり、これがあるために、人間は生、老、病、死の苦を繰り返すのであります。しかし、よく考えてみると、その無明というものも実は空ではないか。実在するわけではないのだ。
 盤珪和尚の所へ人が来て、
 「私は生まれつき短気で困りますが、短気の治る方法はござりますまいか」
と尋ねたら、盤珪さんが、
 「おまえさん、妙なものを生まれつき持っておるのやな。短気というものを持っとるのか。そんなものがあってはそれはいかんじゃろう。さあ出しなされ。わしが治してあげよう。さあ、出しなさい」
 「出せと言うたって、そうすぐ出るわけじゃありません。何か気に入らんことがあると、すぐにムカムカと出てくるのです。今出せと言われても出せません」
 「それではおまえさん、生まれつきあるのではない。気に入らんことがある時にムカムカと出るだけじゃないか。生まれつきあるものなら、舌を出せと言えば出せよう、臍を出せと言うても出せようがな。気に入らん時に出てくるだけだったら生まれつきじゃない。そりゃ、おまえさんのわがままというものだ。気に入らん時に辛抱さえすれば出やせん。その自分のわがままを生まれつきだなどといって、親にけちをつけるものじゃない。親の生み給うたはすべて仏性(ぶっしょう)ばかりじゃ、仏心ばかりじゃ」
 こう言われてみて、「なるほど」と考えたら短気が治ったという話があります。
 貪瞋痴(とんじんち)ということを仏教では申します。あれが欲しいこれが欲しいという貪(むさぼ)る心。あれも気に入らんこれも気に入らんと腹の立つ心。ああしなければよかった、こうしなければよかったという、すんだことに対する愚痴の心。そういうものも実は何も実在するわけではありません。ちょうど青空に雲が湧くように湧いて出るだけであって、青空は実在だが雲は実在ではない。雲は湧いて出るだけである。
 こうわかれば無明もない。しかし、無明というものは実在するものではないけれども、なくなるものでもない。腹が立つというようなものは、身体中どこを探しても何もありはせんが、しかし腹の立つことはなくならん。
 無明も無し、無明の尽くることも無し。本当に秋晴れの空は、このとおり雲一つないスカッとした日本晴れだということがわかれば、雲があってもいいではないか。雲があるのが面白いではないか。こういうことになる。
  さまたげぬほどの雲あり月まどか
 俳句になっておるかどうか知りませんが、昔、老僧が作った駄句であります。お月さんがまん丸だということが手に入れば、雲のあるのも愛嬌ではないか。雲があってもいいではないか。無明は実在するものではない、お互いの本性は煩悩なぞあるものではない、スカッとした無心が、空が本性だとわかれば、煩悩はあってもいいではないか。出てきたっていずれまもなく消えるものだ。
 こう徹すれば、煩悩があるのも、かえって人間味があっていいではありませんか。煩悩があってもよし、なくてもよし、と。こういう世界が空という世界ではないかと思うのであります。