生也全機現、死也全機現

禅 語

更新日 2018/02/01
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生也全機現、死也全機現
せいやぜんきげん しやぜんきげん

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

死体もまた素晴らしい自分の姿

―生也全機現、死也全機現―(『圜悟語録』十六)
生きているときだけが自分の姿ではない。死んで棺桶に横たわる姿もまた、他に代え難い自分の尊い姿なのだ。どうして魂の抜けた亡骸などといえようか。


 啄木の詩に、「剽軽(ひょうきん)の 性(さが)なりし友の 死に顔の 青き疲れが 今も目にあり」というのがあった。その顔面蒼白なデスマスクが、生前に人を笑わしてばかりいた友の沼田千太郎とはっきりした対象をなしている。その生死の判然とした変わりざまが素晴らしい彼ならではの死相だというのであろう。
 私は職業柄、今までずいぶんと人の死相を拝んできた。その人の死が悲しく愛しくなって死に顔を覗き込み、冷たくなった頰に手を当てる時もある。生前言い争った人の場合は、棺の中から起き上がってくるような気がして気味悪く、お別れもそこそこになる。
 映画「おくりびと」が話題になってから、心なしか死体に化粧を施す葬儀屋さんのマナーが今までよりも尊いもののように見えてきた。
 そして、誰でも生前に見たこともないような美しい姿になるのは不思議だ。やはり心身ともに苦しみから解放されると、誰でもああいう顔になるのだろうか、と自分のデスマスクを想像してみる。
 死の姿で対称的なのは、「涅槃図」に画かれた仏陀入滅の姿と、キリスト教の聖堂で見る十字架に掛けられたキリストの姿である。両者の死のあまりにも個性的な姿を見るとき、やはり聖者というものは、生前に見せた抜群のはたらきとともに、死を迎えてもまた凡人には見せられない個性を発揮しているのを感じる。一方は悟りの安らぎを湛え、他方は人類の罪を引き受ける代受苦の尊い姿である。