在途中不離家舍

禅 語

更新日 2019/01/01
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在途中不離家舍
とちゅうにあってかしゃをはなれず

『自己を見つめる -ほんとうの自分とは何か』
(山田無文著・初版1982.1・禅文化研究所刊)より

有一人論劫在途中不離家舍。有一人離家舍不在途中。(一人有り劫を論じて、途中に在って家舎を離れず。一人有り、家舎を離れて途中に在らず)(『臨済録』上堂)

 毎日の生活において、そのものそのものになりきっていくこと、それが禅であります。いましているそのことに、いつも無念無想となって打ち込んでいくならば、立派に坐禅を実践していると申せましょう。
 平凡であって結構だ。現実のこの社会で、さまざまに生きてゆく諸君ひとりひとりの生活が、そのまま禅とならねばならん、と思うのであります。
 わたくしはここ数年、年賀状というのを書いたことがございません。
 だれかに宛名を書いてもらって、印刷したものを出すのではあまりにも形式的すぎて味気ない。かといって自分で一枚一枚書いておっては四日も五日も費してしまうが、そんな暇はない。まあ、こちらから出さなかったなら、相手の方もくださるまい。それが一番よかろうと思って出さんようにしておるのです。ところが、それでも毎年たくさんの方から年賀状が届きます。
 「ああ、こういう方もおられたな。ははあ、このお方はお元気のようでなによりじゃな」
と思い出させていただいておるのですが、返事は書けん。まことに横着してすまんことだと思いますが、ごかんべん願っております。
 今年も大勢の方から年賀状をいただきましたが、その中で特に心に残るものが二枚ございました。くださったのは二枚とも死刑囚として福岡の刑務所に入っておられる方です。ひとりは西武雄さんといい、もうひとりは石井健次郎さんと申します。
 終戦後、日本中が混乱していたころに、ある韓国人が殺されました。その嫌疑がどういう理由でか、この二人にかかってしまい、裁判の結果、死刑を宣告されたのです。本人は二人とも絶対人を殺した覚えはないと無実を訴えているのですが、裁判のやり直しもしてもらえません。といって確実な証拠もありませんから処刑もされないまま、今日まで二十八年間、刑務所に閉じ込められておられます。
 わたくしのある友だちに、その二人の救済運動を長年続けている人がございます。街頭に立って署名運動までなさっています。わたくしも一緒に東京まで行って、法務大臣に裁判のやり直しを申請したこともあります。しかし、終戦直後に起こったむかしの事件ということで、改めて裁判をやり直すというのは、なかなか難しいことのようです。
 その西武雄さんは、元陸軍の中尉だったそうですが、年賀状の末尾に、
無実の獄それも恩寵と寒に耐え
という句を書いておられます。人を殺した覚えはない。それなのに疑われ、しかも死刑囚にさせられた。そして人生の働き盛りだというのに、二十八年間も暗い牢獄につながれて、初めは怒りもされたでしょう。不満もあり、悩みもあったことでしょう。心が乱れて眠られん日もあったに違いありません。しかし、教誨師さんのお説教にもだんだん耳を傾けるようになり、仏教の本も読むようになってきて、このごろでは毎日、念仏を称え、ときには坐禅もして幸せな感謝の日暮らしをさせてもらっているということです。
 死刑囚にならなかったら、坊さんのお話なんて聞く私じゃない。お経の本など読む私じゃない。念仏のありがたさを知り、坐禅のすばらしさを知ったのも、刑務所に入れられたおかげだ。そう思えば無実の罪にも感謝ができる。これも恩寵だとしみじみ思いながら、火の気のない牢獄で、この冬の寒さに耐えている――と、こう告白されておるのであります。
 そのことばに嘘はない。嘘でこれだけのことはいえません。「無実の獄それも恩寵と寒に耐え」――これは西武雄さんの真実の心だと思います。
 もうひとりの石井健治郎さんは、刑務所の中でしきりに絵を描いている人です。その石井さんの年賀状には、こういう句が書かれておりました。

  身も心も仏に抱かれ初日の出

 人生のもっとも大事な時期を刑務所で無為にすごしていくのは、まことに残念でありましょう。まったく社会から隔離された死刑囚でありながら、二十八年もたったいまでは、何の怒りもなく、悩みもなく、不満もない。まるで仏に抱かれているようなやすらかな心で、また無事に新年を迎えさせていただいている。初日の出を拝ませていただいている。なんとありがたいことか――と、こうおっしゃっているのです。
 こういう心境を、外(ほか)、一切善悪の境界に於いて、心念起こらざるを名づけて坐と為す。内(うち)、自性を見て、動かざるを名づけて禅と為す。
と申します。社会にどんな事件が起こっていようが、社会から死刑囚として排斥されながらも、少しも心が動揺しない。ご信心をいただいて、静かに仏性を見つめていく。自分の心の中に大安心を得て、身体も心も、仏に任せきって何の不安もない。それが坐禅であります。

  途中に在って家舎を離れず。家舎を離れて途中に在らず。

 臨済禅師はこう示されております。人生とは、永遠の途中であります。その途中の人生の中に永遠なる仏性を自覚していかねばならん。勉強することが途中、仕事をすることが途中、電車やバスに乗って通勤通学することが途中、食事をしたり、風呂に入ったりすることもすべて途中であって、勉強するときは勉強そのものになりきることです。会社で働いているときは、その仕事になりきり、食事のときは食べることになりきって、いつも泰然として動揺しない心であらねばならん。現実のこの社会、毎日の生活の中にあって、自由自在に動きながら、しかもそこに一念も動かぬ心を味わっていかねばならん。