雲門秘在形山

禅 語

更新日 2019/03/01
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雲門秘在形山
うんもんぎょうざんにひざいす

『無文全集』第三巻「碧巌録Ⅲ」
(山田無文著・2003.12・禅文化研究所刊)より

「雲門、衆に示して云く、乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す」(『碧巌録』第六十二則【本則】より)

 雲門の文偃禅師がある時、皆に示されたのである。
「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す」
この大宇宙の中に一つの宝がある。大事な宝、宇宙の宝、天下の宝がある。形山に秘在す。形山は人間の肉体のことだ。この肉体の中に、どこか知らんが隠れておる。この無限の時間、空間の中に一つの宝があり、その宝はこの肉体の中にあるのだ、と。これは雲門大師の発明された言葉ではなくして、先にも出てきたことのある肇法師の宝蔵論という書物の中の言葉を引かれたのである。

 「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す」。この宇宙の間、何がいったい一番大事なのか。何が一番貴いのか。一番貴い宝はめいめいの体の中にある。一人ひとりの体の中に宇宙の宝が隠されておる。その宝の分かることが、人生の一番大切なことでなければならん。金があっても、そんなものは宝ではない。死ぬ時には置いて行かねばならん。総理大臣になろうが、位、人臣を極めようが、そんなものは宝ではない。生きておる間の夢だ。この世の中の宝、永遠に滅びない宝が一つある。めいめいの心の中にある。こう肇法師が言われたのであるが、その肇法師の言葉を雲門大師がここに持って来て示されたのである。それだけでは分かるまいと思われたのか、さらに言葉を添えられたのである。

「灯籠を拈じて仏殿裏に向かい、三門を将て灯籠上に来たす」

 極めて分かりやすいように、目の前にあるものをもって皆に示されたのである。庭先の石灯籠を持って来て、本堂の仏壇の真上に据え、三門を持って来て、その灯籠の中に入れてしまう。どうだ分かるか。これが分かったら、「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す」という肇法師の言葉が分かるであろう。灯籠は小さくて本堂は大きいのだから、灯籠が本堂の須弥壇に飾られるのは別に無理なことはない。しかし、三門を持って来て、灯籠の中へ入れてしまうということは、無理ではないか。小さなものを大きなものの中に入れる、今度は大きなものを小さなものの中に入れる、そういう自在がなければならん。それが圜悟の言われる、「一句下に向かって殺有り活有り」か、「一機中に於いて、縦有り擒有り」というはたらきか。経典には、「芥子、須弥に入り、須弥、芥子に入る」という言葉がある。そういう自由がなければならん。宇宙の中に芥子の実を入れるのは誰にでもできることだ。だが、芥子の実の中に宇宙を入れることができるかどうか。その不合理が自由にできなければならんというのである。

 「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す」。お互いの仏性というものは形のない、姿のない、色のないものだから芥子粒よりも小さい。お互いの肉体の中へ入るのはあたりまえだ。しかし、どこに入っておるかは分からない。ところが、このお互いの心の中に富士山が入り、太平洋が入り、太陽が入り、月が入り、何千万の星が入る。大宇宙が心の中へ入ってしまう。そういう自在なものがお互いの生まれたままの心でなければならん。三門を灯籠の中に入れるどころではない、大宇宙が皆お互いの目の中へ入ってしまう。そういう自在なはたらきがお互いの生まれたままの心でなければならん。

 臨済禅師は、「赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入す」と言われた。お互いの、切れば血の出る、この体の中に一人の仏さんがおられる。しかも、体の中ばかりに入ってはおらん、出ることもある。どこへでも出て行く。十方世界、自由自在に出て行くのである。
 「大なる哉、心や。天の高きは極む可からず、而も心は天の上に出づ。地の厚きは測る可からず、而も心は地の下に出づ。日月の光は踰ゆ可からず、而も心は日月光明の表に出づ。大千沙界は窮む可からず、而も心は大千沙界の外に出づ。其れ大虚か、其れ元気か、心は則ち大虚を包んで元気を孕む者なり。天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。大なる哉、心や」。栄西禅師はこううたっておられる。心の中で天は覆い、地は載せておる。心の中で春夏秋冬気候は変わっていく。心の中で万物が生じていく。春は花が咲き、初夏ともなれば新緑が萌えて、秋ともなれば実がなり、木の葉が散っていく。春夏秋冬、すべてがお互いの心の中の出来事である。しかも世界と自分とは別物ではない。鏡に映されるものと映すものとはまったく同じだ。そこに無縁の慈悲をもって、一切衆生を救っていかねばおれん。無師の智をもって、誰からも教わらない生まれたままの智慧をもって、世界と我とは別物ではないと分かり、別物でないから救おうとも思わずに救っていく。体に蚊がとまれば払うがごとく、人の悩みを思わず払っていく、人の苦しみを意識せずに救っていく。我が体の悩みと同じことだ。それが、「無縁の慈を以て、不請の勝友と作る」ことだ。そういう素晴らしいものが、一人ひとりの体の中にある仏性というものだ、と。そう分かることが人生の宝でなければならん。一番大事なことでなければならん。こう雲門大師は示しておられる。