―仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ(『臨済録』示衆)
正しいものの見方を持とうとするならば、決して人に惑わされてはいけない。自分の内であれ外であれ、出逢うものは直ちに殺せという教えである。危険極まりない臨済禅師の言葉の陰に、人間としての主体性を確立させようという、禅師の熱い慈悲心が隠れているのを、見落としてはいけない。
『臨済録』が初めて英訳されて世界に紹介されたとき、「仏や祖師に出逢ったら直ちに殺せ、父母や親族に出逢っても殺せ」とあるのを見て、西欧のクリスチャンたちは禅はなんと恐ろしい宗教ではないかと眉を顰めたらしい。
およそ宗教とは思われないこの「禅宗」という東アジアに独特の宗教は、いわゆる有神論ではない。そうかといってまた、ニーチェが神を殺して唱えた「ニヒリズム」でもない。
臨済は決して無神論者ではない。彼は門人たちに向かって、お前ら一人ひとりの中に具わっている「一無位の真人」(形なき真実の自己)を見い出せと迫ったのである。この形なき自己は、固定的に存在するものではなく、朝から晩までわれわれの感覚器官を通って、活発に出たり入ったりしているという。
それこそが「本当の自分」というものであって、それ以外に真実の自己などあり得ないという。従って真実の自己に出逢うためには、自分を惑わせるもの、特に権威をもって自分に迫ってくるものは、たとえそれが仏や祖師、父母や親族であっても、徹底して否定しなければならないと臨済はいう。
仏陀は二千五百年前すでに、「己れこそ 己れの寄る辺己れを措きて 誰に寄る辺ぞ よく調えし己れにこそ まこと得難き 寄る辺をぞ得ん」(『法句経』)と説いている。そうなると禅宗こそ、仏陀の精神をしっかりと伝える「正伝の仏法」ということになろう。