さて一日、この天下の老和尚趙州大禅師に、一人の僧が現われて尋ねた。
狗子に還って仏性有りや也た無しや
と。狗子と言っても子犬のことではない。椅子だの菓子だのと、この「子」の字は何にでもつける助字である。日本でも東北へ行くと、茶碗コだ、箸っコだ、銭っコだと、やっぱりコの字をつける風習がある。愛玩的表現かも知れない。「狗子に還って仏性有りや也た無しや――犬にもまた仏性がありますか、ありませんか」と問うた。釈尊は、「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す――どんな生きものも皆な仏性を持っておる」とおっしゃったそうだが、それなら、この畜生にも仏性がありますかという質問である。もし有ると言ったら、このあさましい動物のどこに仏性が有るか、もし無いと言ったら釈尊ほどのお方も、嘘を言われたか、という次の難問が控えていよう。
「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す」、これはまさしく仏教の根本原理である。「人間が平等で尊厳だ」ということは、かかる実証があって初めて言えることであろう。生物学には進化論というものがある。ダーウィンは、キリスト教徒の迫害を受けながら進化論を推進された。生物は進歩していく。人間ももとはアミーバだった。やがて何億年かたって犬か猿の類になった。その猿のごとき動物がついに人間にまで進化したということは、環境条件とともに人間になれる素質を、本来、持っておったからであろう。その人間の中から、釈尊のような崇高な人格者が出て来られたということは、動物でも進化の法則によって、いつかは仏になれるということであろう。だから、あらゆる生物が仏になれる素質としての仏性を持っておると言える。これが仏教の原理である。ところで現実に犬に仏性が有るか無いか、と探究するならば、それは動物学の問題であって、精神文化としての禅の問題ではない。禅の問題は常に自己の探究にある。従って、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」という質問は、「犬のごとき煩悩だらけの無自覚な私ごとき人間にも仏性がござりますか、いかがですか」という切実な問題であらねばならぬ。
州云く、無
趙州はそこで「無」と答えられた。この「無」が問題の時限爆弾である。千年後の今日なお、万人の前に横たわる手のつけようのない怪物である。
無門和尚は批判して、「虚無」の無ではない、「有無」の無でもないと暗示を与えておられるが、釈尊が有ると言われたのを、趙州がことさらに否定するわけはないから、有無の無でもないし虚無の無でもないことは明らかだ。それならばどういう無であろうか。無それ自体の持つ特異性がなければならんであろう。
それよりは仏性とは何かということが、先決問題であらねばならぬ。臨済禅師は、これを「無位の真人」と言われた。真実の人間である。真人格である。真人格は無相無形、形はない、姿はない、色もない。しかし、活撥撥地に生きてはたらく生命それ自体だ。仏性とはそういうものだ。形はない、姿はない、色もない。無位だからポストもない。そういうものがお互いの純粋な人間性だと、徹しなければならんであろう。微細に解明すれば男でもない女でもない、若くもない年寄りでもない、善でもない悪でもない、先生でもなければ生徒でもない、金持ちでもなければ貧乏でもない、生まれたでもない死ぬでもない、どういう評価も否定されなければならぬものが仏性であろう。そこを趙州和尚は極めて端的に、「無」という一字でもって示されたであろう。この無がわかるなら、釈尊とも歴代の祖師とも手を把って共に行き、「眉毛厮結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや」と無門和尚が評唱しておられるとおり、人生これ以上の感激はないであろう。「透関を要する底有ること莫しや」である。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」とは、そうした感激であろう。
仏性とは個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性である。生まれたままは遅い。生まれんさきがよい。親も生まれんさきがよい。これを父母未生以前の本来の面目と言う、などと説けば説くほど屋上に屋を重ねることになる。やはり趙州和尚の「無」の一字、この一字以上の言葉はない。ただこれ「無」。
禅語
趙州狗子 じょうしゅうくし
『無文全集』第5巻「無門関」
(山田無文著・2004.01 禅文化研究所刊)より