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鑊湯無冷処 (白雲広録) かくとうにれいじょなし

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

03月を表す季節の画像

 「鑊湯(かくとう)」とは、グラグラ煮えたぎった熱湯のことです。沸騰している釜の湯はどこを取っても、煮えたぎっています。一滴たりとも冷たい水はありません。まさに「鑊湯に冷所無し」です。
 これは一体、何を意味しようとしているのでしょうか。それは「正念相続」です。いつでも、どこでも、何事をするにしても、生き生きとした正念――雑念妄想ではないことを相続していく、すなわち「三昧」の心をいつも持ち続ける、いわば何事であれ、その事に純一であれというわけです。
 それは何も難しいことではありません。私たちの毎日の生活において、仕事のときは一途に仕事三昧、遊ぶときは一途に遊び三昧、食事のときも、勉強のときも、それぞれに三昧、その間に一点の雑念妄想をはさむことなく、全身全霊を以て事にあたる。その辺の消息を「鑊湯に冷処無し」というわけです。
 利休居士は自分の草庵の釜の湯を、いつも煮えたぎらせていたといわれています。彼はいつも茶道正念に住し、正念相続を志していたからではないでしょうか。朝起きてから夜寝るまで、否、寝ても覚めても、「著衣喫飯(じゃくえきっぱん)屙屎送尿(あしそうにょう)、一挙手一投足」、それもすべて茶道のうちだったのです。
 近頃、大学の新入生、会社の新入社員の中に、ボヤーッとして、なんとなく生きている「五月病」という病気があるそうです。
 新生活を初めて一ヶ月、五月の頃にしばしば現れるノイローゼ症状で、新しい環境に慣れないことが原因のようです。受験勉強に全神経をつぎ込んで、やっと入った大学では、休講が多く、時間を持て余し、友人も少なく、気持ちの上でぽっかりと穴のあいたような状態に落ち込みます。張り切って入った会社でも、新しい職場の仕事は単調そのもの、仕事が厭になり、生きがいを消失させてしまいます。
 五月病に悩むある女性新入社員の話です。会社に行くのが厭で、会社をサボって自宅付近の公園をぶらつきます。ふと見ると、一匹の子犬が、飼い主の投げたボールを遠くまで走って行って口にくわえて飼い主に届けます。
 飼い主の中年の男は、またボールを投げて犬に追わせます。この単調な作業をくり返される犬は、あえぎながらもスピードを落とさずに全力疾走を続けて止みません。しかもその犬のつややかな毛並みと、いやいやでない充実した走りっぷりに、彼女は自分の心中にうずくものを感じます。「そうだ、いやいやながらすると自分の肌も眼も汚れてしまうのだ。どうせしなければならない仕事なら、いつかはしなければならない。それなら、いっそ楽しくできるように仕事の方法に工夫をこらしてみよう。工夫が足りないから作業が受け身になるのだ……」と。
(松原泰道『行雲流水』総合労働研究所参照)
 何度も何度も全力疾走する犬、まさに「鑊湯に冷処無し」の端的(たんてき)です。犬は全身を挙げてボールを追っています。同じ単調な仕事でも、一生懸命やりさえすれば美しいものです。煮えたぎった犬の行動は、彼女に「積極的な生き方」を教えたのです。
 「鑊湯に冷処無し」。畢竟(ひっきょう)、私たちに煮えたぎった生き方を示唆しています。心が充実すれば心が前向きに進みます。前向きに進めば、人生もまた楽しです。

花はなぜ美しいかひとすじの気持ちで咲いているからだ(八木重吉)

 人間に生まれて来てよかったな!と思うためにも、自分に与えられた事を一生懸命やろうではありませんか。心が煮えたぎるほど燃えて!