主人公

禅 語

更新日 2020/10/01
禅語一覧に戻る

主人公
しゅじんこう

『床の間の禅語』
(河野太通著・1984.7.禅文化研究所刊)より


瑞巌和尚、毎日自ら主人公と喚び、復た自ら応諾(おうだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、 喏(だく)。他時異日、人の瞞(まん)を受くること莫れ、喏喏(だくだく)」(『無門関』第十二則)

 瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「ハイ」と返事をしていました。 「はっきりと目を醒ましているか」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」といって、 毎日ひとり言をいっておられたというのです。
 ここでいう主人公とは、家庭の主人のことではありません。もちろん、会社の社長でもない。人間一人ひとりの 主体的な人格のことです。
 私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちです。とくに今日、私たちをとりまく環境からくる刺戟は たいへんなもので、外のものに目を奪われている間に、自己を喪失しやすくなっています。そこで、いつも主体的 な自分というものを、はっきりと自覚していなければなりません。「おい、主人公、目を覚ましているか」とみず からを覚醒しなければならない。
 盤珪禅師はこういわれています。


 主(ぬし)と申さば一切に自在なるところの名じゃ。自在とは自ずから在るということではござらんか。

主体的な自己である主とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいることをいいます。また、自在ということ は、自ずから在るということで、力まず、自然に無心な己れ自身であることです。心に何もなければ、いつ、どこ ででも固くならずにいることができます。どうしても固くなるのは、心の中に何かがあるからです。
 心の中に何の思いもないときは、自由自在ですから、どこへ行っても自分の家にいるのと同じです。どこへ行っ ても遠慮せずにおられます。お釈迦さまは「この世界はわが家だ」と悟られました。そして、世界の主人公になら れたのですが、それが主体的な自己というものです。