風性常住無処不周

禅 語

更新日 2021/08/01
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風性常住無処不周
ふうしょうはじょうじゅうにして ところとしてあまねからざるなし

枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より

『聯灯会要』

師(麻谷宝徹(まよくほうてつ)禅師)、扇を使う次(つい)で、僧問う、「風性は常住にして処として周からずということ無し。和尚、甚麼(なん)と為(し)てか却(かえ)って扇を使う」。師云く、「你は只だ風性常住なることを知って、且つ処として周からずということ無きことを知らず」。云く、「作麼生か是れ処として周からざること無き底の道理」。師、却って扇を揺がす。

 中国唐の時代、馬祖道一禅師の法を嗣いだ宝徹和尚(生没年不詳)の話です。クーラーも、扇風機もないある夏の日です。和尚は暑さをしのぐ為、扇子を使って涼んでいます。一人の修行僧がやって来て質問します。
「風性、つまり空気は何時でも何処でも満ち満ちている。それなのに何故扇を使うのですか」。
 和尚はそれを聞くと、「空気が何処にもある事を知っているけれど、空気のない処がない事を知らない」と誡めます。
 すると僧も負けてはいません。「空気が何処にもあるという事と、空気のない処がないという事とは一緒の事ではないか、あえて和尚が空気のない処がないという道理を聞かせて下さい」と追いかけますが、和尚はただ黙って扇ぐのみだったというのです。
 麻谷和尚は何を云おうとしたのでしょうか。
 中国の詩人蘇(そ)東(とう)坡(ば)が、

  渓声(けいせい)便(すなわ)ち是れ広(こう)長舌(ちょうぜつ)
  山色(さんしょく)豈(あ)に清浄(しょうじょう)身(しん)に非(あら)ざらんや

と頌するように、雨竹(うちく)風松(ふうしょう)みな禅を説き、天地日月森羅万象みな大道のあらわれであり、真仏の声であると云われます。一切の存在はすべて仏性(悟り)であり、その仏性は空気のように私達の回りに満ち満ちているのです。しかし、その道理を知っただけでは何もなりません。絵に描いた餅でしかありません。「扇ぐ」という実践があって、初めて体得出来るというわけです。
 物理的に人は水に浮く事になっています。しかし誰でも水に飛びこんだら浮くかと云えばそうではない。泳げない人はどういうわけか浮かばない。手足を動かせばかえって沈んでいってしまう。ところが泳げる人はどういうわけか沈まない。
 人は水に浮く原理はわかっているけれど、実際に泳げない人は沈んでいってしまう。泳ぎを覚えて始めて体が浮く原理が名実ともにわかるわけです。
 道元禅師は、「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」と云っておられます。