更新日 2021/09/01 |
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『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』 |
『永平広録』 只だ是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞せられず。便乃ち、空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無し。 等閑とは運に任せる意で、不思議なめぐり会いをいいます。一毫とはほんの少しの事。不思議なめぐり会わせで天童如浄禅師に会う事ができ、修行させて頂いた。お陰で、そのまま、あるがまま、眼は横に、鼻は直にある事をしっかり把握する事ができ、余計な戯論にまどわされる事もなくなった。思えばわざわざ中国まで出掛けて行ったが何の土産もなく、手ぶらで帰って来たようなものです。だから、私の手元には一かけらの仏法もない、というわけです。 ある日、一休さんは一本の曲がりくねった松の鉢植を、人の見える家の前に置いた。「この松をまっすぐ見えた人には褒美をあげます」と、小さな立て札を鉢植に懸けたのである。 (『大法輪』昭和63年2月号、藤原東演「臨済禅僧の名話」参照) さあ、どうでしょうか。私達は「眼横鼻直」のように、あるがままに受け入れているのでしょうか。他人の意見、自分の主義主張にとらわれて、本当の姿を見失っているのではないでしょうか。眼は横に、鼻は直に、じっくり味わいたい句です。 |