更新日 2021/10/01 |
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『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』 |
『碧巌録』 病む時は、病むがよろしく候 とばかりに生死を超越したのです。否、この「日面仏、月面仏」の裏には、しかめ面した執事を見て「ウッフッフッ、このウスノロ坊主めが、何をあたふた走りまわっているんだい。今の俺の境界は釈迦と雖も、達磨と雖も窺い知ることはできやしないぞ! 况んや、ましてお前などには、ウッフッフッ......」とばかりに、死に瀕しながら、余裕綽々と自分の悟りの深さを楽しんでいる様子が見えます。 糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな この、痰のつまりし仏かなは、今死んで行く正岡子規自身です。痰が喉につまってゴロゴロし始めます。もうふっ切る力も、飲み込む力もありません。事実、このために数時間の後に息を引き取るのですが、その死んで行く自分を冷静に見つめて、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」と俳句を作れる正岡子規は、完全に生死を超えていたのです。すなわち、生死を超えるとは「死」を諦めるというのではなくて、それ以上、「死」を楽しむ境界が「仏かな」と表現させたのではないでしょうか。生にもとらわれない、死にもとらわれない永遠の自己を、しっかりと把握していたのです。 |