大道透長安

禅 語

更新日 2022/08/01
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大道透長安
だいどうちょうあんにとおる

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より

趙州録(じょうしゅうろく)』にあります。

問う、「如何なるか是れ道」。師云く、「墻外底(しょうげてい)」。云く、「者箇(しゃこ)を問わず」。師云く、「什麼(なん)の道をか問う」。云く、「大道」。師云く、「大道長安に通ず」。
 墻とは垣根の事、底は存在を表わす助詞。長安とは中国陝西省(せんせいしょう)
西安(せいあん)にある町の名で、古来よりここを国の都として栄えて来た都市で、丁度、この趙州和尚の時代でも唐の都として繁栄し、道路や運河がすべて長安を中心に四通八達して、国のすべての道が長安に通じると云われていました。ここでは長安とは悟りの世界、大安心の当処を指します。
 一人の僧が趙州和尚に問います。「いったい道とはどういうものですか」。趙州和尚が答えます。「墻外底――道なら垣根の外にあるではないか」。つまり「道」と云って、何も難しい事を考える必要はない、朝起きて顔を洗い、飯を食べ、働き、また眠る。この日常茶飯事の一つ一つが「道」であって、それ以外に「道」などない、毎日歩いている道こそ「道」だと云うわけです。僧はまだ気が付きません。「安心に到る大道をお教え下さい」。趙州和尚、言下に、「大道長安に通ず――お前さんの立っている道もまた、長安、即ち悟りに到る道だ」と喝破します。
 しかし、私達の日常茶飯の一挙一動がそのままに「道」であるわけがありません。趙州和尚は「大道こそ長安に透る(・・・・・・・・・)」という意味を籠めて「大道長安に透る」と答えたのです。大道とはその道に純一無雑になる事です。坐禅(・・)看経(・・)念仏(・・)は云うに及ばず、食事の時は食事三昧(なり切る事)、仕事の時は仕事三昧、読書の時は読書三昧、酒を飲む時は酒飲み三昧、お茶を飲む時はお茶飲み三昧、遊ぶ時は遊び三昧、勉強の時は勉強三昧、いつでも、どこでも、何事でも常にその事に全身全霊を打ち込んでこそ、初めて「道」と云えるのです。
 釈尊の弟子に周利槃特(しゅりはんどく)という愚か者がいました。彼は自分の名前さえ覚えられなくて、板に書いてもらって首からブラ下げていたほどです。釈尊の弟子になっても一向に修行が進みません。案じた釈尊は彼に、「三業(さんごう)に悪を造らず、諸々の有情を傷めず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみは免るべし」の言葉を教えますが、そばにいた羊飼いの少年さえ、すぐに暗誦する事が出来るのに、周利槃特はどうしても覚えられません。悲しむ彼を見て釈尊は語句をさらに短く縮めて、「(ちり)を払い、垢を(はぶ)かん」と教え、さらに一本の箒を与えます。与えられた箒で、寺の各所をくまなく一心に掃除をしながら、「塵を払い、垢を除かん」を口ずさみ、毎日毎日励みます。そして遂に心にふりかかる煩悩や塵や垢をはらいのけて、悟りを開きます。箒で掃除するささいな事一つでも、その事に徹すれば悟りに到る事が出来るのです。まさに「大道長安に透る」端的です。
 余談ながら周利槃特のお墓に生えた草を、自分の名前を首にかけていた因縁で「茗荷」と云い、それを食べると物忘れがひどくなるという云い伝えがあります。
 また、この句を何処の道も長安に通ずと解して、

分け登る(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな

と一休禅師が詠じるように、宗教も、仏教、キリスト教、マホメット教と分かれ、宗派も、坐禅、念仏、題目等と色々あります。が、到達する所は同じ安心の悟りの世界であると説く事もあります。しかし、趙州和尚の意図する旨は、「道」と云っても特別高尚なものではなく、周利槃特の話のように日常卑近な所に「道」はあるという事ではないでしょうか。