壺中日月長

禅 語

更新日 2017/08/01
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壺中日月長
こちゅうじつげつながし

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

時間を超えた別世界

―壺中日月長し―(『圜悟語録』十八)
 『後漢書』に見える故事を、禅の心境を示すために用いた語。後漢時代、汝南の市場に薬を売る老人がいた。彼は夜になると、店先の壺の中に入っていく、これを見た役人の費長房という人が、老人に頼んで壺の中に入って行くと、そこは時間のない永遠の世界であった。

 だいぶ前、ノンブックス版で『地球空洞説』というのを読んだことがある。本を貸してくれた学生は、これはフィクションではなくて、実際あった話だと真顔で説明してくれたものだ。UFOの話題が盛んであった頃のことである。
 太平洋の海溝の辺りに一カ所、海に穴が開いていて、海水がそこから地球の中へ流れ込んでいる。アメリカの戦艦がそれに気づかず進んで地球の内部へ入っていくと、そこには時間のない世界が開けていたという話であった。現代版『桃源郷』というところか。
 洋の東西を問わず、昔はこのような話があったのだが、このごろの人間はあまり理想ということを言わなくなったように見える。『理想』という雑誌も姿を消して久しい。それほど現代人は現実主義に陥ったのであろうか。
 「壺中日月長」は禅僧が好んで揮毫する語の一つである。殊に茶室の掛け物として喜ばれるようである。「別是一壺天」というのもある。禅語録では、完結した一つの世界に安住することへの批判として用いるケースもあるという。(入矢・古賀『禅語辞典』)
 しかし今は、この世とも思えない別世界のこととしておこう。もちろん悟りを開いた人にとって狭い庵の空間が、そのまま天地一杯の永遠世界であるということにもなろう。
 実際、カール・ブッセのように「山の彼方の空遠く」へ幸いを求めて行っても、結局は涙さしぐみ帰ってくることになろう。幸いはもともと自分の脚下にあるのだから。