銀椀裏盛雪

禅 語

更新日 2017/12/01
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銀椀裏盛雪
ぎんわんりにゆきをもる

『無文全集』第11巻「碧巌物語」
(山田無文著・2004.02 禅文化研究所刊)より

 ある時、一人の僧が巴陵和尚に問うた。「なるか是れ提婆宗」。巴陵が答えた、「銀椀裏に雪を盛る」。
 この巴陵というのは、湖南省岳州巴陵県の新開院という寺に住職された、顥鑑という和尚のことである。岳州というのは岳陽楼の記にもあるように、素晴らしい景色の良いところで、この巴陵はそういう景勝の地に住するにふさわしい、趣味の広い、境界の洗練された人であって、口をついて出る一句一句がすべて詩であったようだ。雲門宗の生粋を嗣いだ作家と思われる。
 師匠である雲門大師さえも、その言句を非常に賞揚されて、「わしが死んでもお経を誦むことは要らぬ。巴陵の三転語を唱えておけ」と言われたほどだ。
 その三転語とは、
  僧問う、「如何なるか是れ道」
  巴陵云く、「明眼の人、井に落つ」
  僧問う、「如何なるか是れ吹毛剣」
  巴陵云く、「珊瑚枝々月を撐著す」
 この二句に、本則の「銀椀裏に雪を盛る」の一句を加えた三句である。
 提婆宗は提婆の宗旨の義であるが、提婆とは、インドにおける伝灯の祖師、迦那提婆尊者のことで、もと九十六派の外道の一員であったが、第十四祖龍樹菩薩に化導されて仏門に帰し、嗣法して第十五祖となられた大徳である。龍樹の『中論』および『十二門論』に、この提婆の『百論』を加えて、後世、三論宗という一宗派が起こったほどの学者でもあった。
 もともと外道であったから、その方の学識体験も深く、弁舌もさわやかで言句の妙を極めたため、龍樹亡き後、外道をことごとく説伏して大いに仏法を興隆し禅風を挙揚し、提婆宗、提婆宗と唱導されて一世を風靡したようである。
 元来禅門は、道元禅師も懇切に示されておるように、仏法の総府であって、禅宗などと宗旨を名乗らないのが本筋である。強いて言わば釈迦宗である。釈尊以来、その大法を、一器の水を一器にうつすがごとく、嫡々相承して来たのであるが、その伝灯の祖師達の個性により、自ずから宗風を異にすることは止むを得ないことであろう。「徳山、門に入れば棒、臨済、門に入れば喝」と言われるように、個々の人格が、それぞれの宗風を形成して来たわけである。
 すなわち宗門においては、他宗のごとく所依の経典が宗旨を規定するのではなくて、人間が宗旨である。達磨が出て来れば達磨宗であり、臨済が出て来れば臨済宗であり、雲門が出て来れば雲門宗である。一華五葉を開いて五家の宗派を展開し、更に七宗の結果を成熟したが、五家も七宗も人間の個性によって分かれたもので、生きた人間が宗旨であった。
 二十四流の日本禅もそれぞれの開祖となる人間によって将来されたものであり、四十六流の分派もまたそれぞれの人間によって成立したものである。今日、日本を、いな世界を風靡せんとしつつあるものは、実にわが応灯関の一流であり、身近に言えば白隠宗であり、更に隠山派であり卓洲派である。
 相伝の大法には一点の差別もないのであるが、相承の人間によって、千差万別の宗旨を形成するところに、宗門の特異性があり、生きた人間による活動が、常に大法をして躍動せしめておるわけである。
 馬祖大師が、「凡そ言句有るは是れ提婆宗、只だ此箇を以て主と為す」と批判されたことがある。提婆宗の特異性は言句に優れておる点にあって、その妙言句をもって九十六派の外道をことごとく折伏されたのであるが、肝心のところは、此箇―コイツ―大法―心―禅―にあるという馬祖大師の慈誡であろう。
 当時この提婆宗が相当問題になったと見えて、ある時、僧が巴陵和尚に訊ねた。「如何なるか是れ提婆宗」と。
 「如何なるか是れ提婆宗」は、実はそのまま如何なるか是れ達磨宗であり、如何なるか是れ雲門宗であり、如何なるか是れ巴陵の禅風の意味でもあって、提婆宗は当時禅宗の代名詞でもあったであろう。
 巴陵答えて云く、「銀椀裏に雪を盛る」。
 なんと素晴らしい言句であろうか。なんという奇麗な言葉であろうか。清潔と言おうか、清純と言おうか、高雅と言おうか、優美と言おうか、言い得て妙、穿ち得て玄。この一言まさしく提婆宗の血滴々である。雲門宗の生粋である。天下人の舌頭を坐断するとは、このような一語を言うのであろう。
 正倉院の御物にでもありそうな古雅な、それに繊細な毛彫りでもありそうな精巧な、いま出来たばかりのように純白に輝く、白銀の椀に、いま降ったばかりの清浄な綿雪がこんもり盛り上げられたような、新鮮な感覚。それが提婆宗というものであろうか。禅というものであろうか。

 そこで雪竇は頌って言う。「老新開、端的別なり」。さすがは老練熟達の新開和尚じゃ、雲門宗の生粋をよくぞ伝えておられる。そのはたらきのみごとなこと、その識見の高いこと、その言句の美味いこと、天下人の舌頭を坐断するとは、この和尚のことではあろう。
 「千兵は得易く、一将は求め難し」と圜悟は下語しておるが、まこと巴陵のごとき名僧は、そうざらにあるものではない。
 銀椀裏に雪を盛る、よくぞ言うた。なんと調子の高い言葉ではないか。なんと優れた境界ではないか。よくもこんな言葉が人間の口から出たものじゃ。文は人なりと言うが、言葉は人格でもあろう。げにげに提婆宗ここにありじゃ。
 九十六個の外道も、応に自知すべきである。各々ここの妙趣を冷暖自知してもらわねばならん。なに、わからん。わからなければ天上のお月さんに問うんじゃな。なに、遠すぎるって。じゃ電信柱にでも聞いてもらうか。
 ああ提婆宗! 提婆宗!
 インドでは宗論に勝てば、勝った方が赤旗を立てることになっておるそうだが、巴陵のようなこういう老練の和尚のおる限り、提婆宗は永遠だ。泥沼のような社会に、千古万古、清風を吹き送ることであろう。
  老練なれや、新開和尚    水ぎわたったるそのはたらき
  銀椀裏に雪を盛るとは    こころにくくも言い得たる
  九十六個も、見よ脚下を    月が何しに応えよう
  あゝ提婆宗! 提婆宗!    何人かよく敵するものぞ
  清風今も吹きわたる