『臨済録』国際学会 総括

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『臨済録』国際学会 総括

「臨済禅師1150年遠諱記念『臨済録』国際学会」をふりかえって
衣川賢治(花園大学教授)



160514-3.jpg 今年2016年は臨済義玄禪師(?~866)円寂1150年遠諱の年にあたり、5月13・14・15日の3日間にわたって、日本、中国、台湾、韓国、マレーシア、アメリカ、フランス各国の最前線で研究し活躍する20名の学者が最新の研究成果を持って集まり、臨済禅師と『臨済録』を主題とする世界で初めての国際学会「臨済禅師1150年遠諱記念『臨済録』国際学会」(臨済宗・黄檗宗連合各派合議所、花園大学共催)が、花園大学教堂において開催された。基調講演と五部セッションを振り返ってその意義を確認したい。

0514-1.jpg 基調講演では、中国の思想史学界で最も活躍する葛兆光氏(中国上海復旦大学教授)が「胡適の延長線上に――中国の学界における中古禅宗史研究についての反思」という主題で、三つの問題を論じた(通訳 小川隆駒澤大学教授)。

一.20世紀80年代における禅宗研究の文化的・思想的背景。中国(大陸)では文化大革命が終わり、改革開放が始まって、80年代の「文化ブーム」のなかで従来タブーとされていた宗教に突如関心が集まったが、「近代化」を志向しつつも、伝統文化を見直し、周縁的・叛逆的・超越的な思想、とりわけ佛教・禅や道家に注目することになった。そこには西洋的理性と科学を批判的に見る現代の風潮の影響があり、東洋の思想的価値を提唱した鈴木大拙の影響があった。しかしこの時代の「禅ブーム」には、歴史と文献に対する研究が缺如していた。

二.胡適(1891~1961)の禅宗史研究の意義。胡適は20世紀20、30年代に敦煌文献や碑文、唐代文人の文集中の記述など同時代の新資料を発見し、これにもとづいて従来の灯史を疑い、歴史学的研究にもとづく新たな禅宗史を叙述した。すなわち、かれは文献と歴史を重視して禅宗史を理解して成果を挙げ、一個の研究モデルを確立した。

三.中国の学者が今後なしうる貢献はなにか。日本の西田幾多郎や阿部正雄の禅哲学の研究、鈴木大拙の禅の信仰と心理学的研究は、中国ではさして注目されるには至っていない。一方で欧米ではいわゆるポストモダンの新理論に依拠して禅を論ずる風潮が生まれ、中国にもその追随者が現れたが、目新しい衣装を着けただけで、見るべき成果というべきものはなかった。したがって中国ではなお「歴史と文献」を重視する研究こそが、近年関心の高まっている唐宋以後の元明清時代の禅宗史研究の分野においても、新しい資料を発見し知見の開拓を期待し得る歩むべき道であると論じた。

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 以上の基調講演の対論者として登壇した末木文美士氏(国際日本文化研究センター名誉教授)は、葛氏の「胡適の延長線上におけるさらなる開拓の道」を承けて、胡適には20世紀の近代主義、80年代以後の中国では反唯物史観を背景とした禅宗史研究があったが、では現代において「歴史と文献」重視の研究をおこなう際にいかなる歴史観をもつのかという問題を提起し、禅宗史はそれ自体独立したものではなく、佛教史・中国思想史全体のなかでとらえるべきであるとした。日本においても13世紀に移入された禅宗にいまだ宗派観念はなく、臨済宗も14世紀ごろ形成され、固定するのは江戸時代17世紀になってからである。過去の常識を疑い、これを反転させる研究でなければならないと論じた。葛氏はこれに答えて、日本と中国の研究は、現実社会の問題に対する態度、社会や文化への影響力、研究伝統の点で違いがある以上、まず相違点があることを相互に理解して、互いに協力関係を構築することが必要であると指摘し、今後われわれが研究交流を進めていくうえでの重要な示唆を与えた。

 第1セッション〈臨済禅師と『臨済録』〉(司会 野口善敬花園大学教授)において、荒牧典俊氏(京都大学名誉教授)「臨済禅師は何故に河北鎮州へ行かれたか」は、中国社会が中世から近世への時代の大きな転換期にあたって、思想的にその転換を促す作用をなしたのが臨済禅師であり、それは仏陀の悟りの根本転回と同じ意義を持つのだという議論を展開した。
 伊吹敦氏(東洋大学教授)「臨済と普化――禅思想の完成と新たな聖者像への欲求」は、『臨済録』に登場する普化和尚の形象の意味を、住持として臨済院を運営し定例説法をし修行者への指導をなすべき立場に立った臨済禅師とは異なる、禅僧本来の自由闊達な表現を『臨済録』の編者は必要として、普化という新しい聖者像を生み出したのだという論を発表した。
 黄繹勳氏(台湾佛光大学副教授)「雪竇『開堂録』における臨済古則の意義」は、臨済の「無位の真人」の古則が宋代の雪竇重顕に至って解釈に重大な変化が起こることを指摘し、唐代禅から宋代禅への転換の意義を論じた。

 第2セッション〈『臨済録』テクストと翻訳〉(司会 衣川賢次花園大学教授)は漢語史・禅宗史専攻の学者が『臨済録』テクストとその言語の問題を初めて本格的に論じたセッションで、たいへん有意義であった。
 邢東風氏(愛媛大学教授)「日本伝本『臨済録』の史料的価値」は、『臨済録』の単行本は中国には稀であったのに比べ、日本には高い価値を有する多くの伝本が存することを紹介し、みずから調査した結果をふまえて、そこに含まれる新史料に分析考察を加え、金元時代の『臨済録』刊行にかかわった人たちの活動を解明し、かつ元刊本とされる雪堂刊本が五山版ではないかと推測した。  
 汪維輝氏(中国浙江大学教授)「『臨済録』の言語に関する諸問題」は、「臨済録」の語彙語法に対する精緻な考証によって、現行の伝本には唐代の語彙が宋代になって書き換えられていることを証明し、『臨済録』に初めて見える語彙について従来の解釈を糾し、禅語録の口語文を言語学的な目から読む必要性を指摘した。
 雷漢卿氏(中国四川大学教授、欠席)「無著道忠『臨済録疏瀹』献疑」は、日本の江戸時代妙心寺の学僧無著道忠の『臨済録』注釈書『臨済録疏瀹』の口語語彙解釈の誤り8条を指摘し、用例を博捜して正しい意味を明らかにした。江戸時代の『臨済録』抄物のなかで該書は集大成の位置にあり、従来高い評価を得てきたが、なお千慮の一失があり、禅語録の口語研究の一層の必要性を強調した。
 フレデリック・ジラール氏(フランス極東学院教授)「ポール・ドゥミエヴィルの『臨済録』フランス語訳とヨーロッパの研究」は、氏が22歳のとき初めて読んで感動したドゥミエヴィルのフランス語訳は、じつはこの訳業が長い年月をかけた唐代口語研究の基礎の上で取り組まれたものであり、現実的平易な訳語を駆使し、注釈には西洋の読者の理解のためにソクラテスからジョイス、プルーストまでの類似した発想を引用するなど、文人的な翻訳を目指した理想的な学術出版であり、ヨーロッパでは大きな影響力を持っていることを述べ、ルース佐々木・入矢義高・柳田聖山の『臨済録』英訳事業との交流のなかから生まれたことを証する資料がパリのアジア学会図書館に保管されていることを紹介した。

 第3セッション〈臨済禅の思想と歴史〉(司会 西口芳男禅文化研究所主任研究員)では、齋藤智寛氏(東北大学准教授)「『首楞厳経』と臨済禅」は『首楞厳経』が成立と受容の過程で禅僧とかかわりがあり、唐代では禅宗の経典と目され、初期の禅宗史の文献中にも重要な位置を見出すことができ、臨済が引用する「本是一精明,分為六和合」は「無位の真人」を実体視する誤解を戒める意義をもつものと論ずる説得力に富んだ発表であった。
 アルバート・ウェルター氏(アメリカアリゾナ大学教授)は「教理的仏教と臨済禅――宋代における仏教の再検討に向けて」において、宋明時代の思想を従来の三種から成る思想体系(朱子の理学、陸象山・王陽明の心学、臨済宗の禅心学)に加えて、儒僧・教理僧による伝統的佛教教理と道徳的修行を重んずる佛理学を組み入れることによって、臨済禅宗を佛教の全体と見る誤解を解き、儒者の批判を受けながらも宋明時代の佛教が文人を魅了していた理由が理解されるのであり、そこから理学・心学との関係を再検討すべきであると論じ、新しい見通しの中で宋代以降の思想地図の中に臨済禅がどう位置していたのか考える必要性を説いた。
 土屋太祐氏(新潟大学准教授)「玄沙の臨済批判とその背景」は玄沙の「三句綱宗」の検討を通して、臨済のいう「昭昭霊霊」に対する玄沙師備の批判は直接的には雪峯門下に受容された馬祖禅の「作用即性」説に対する批判だったのであり、自己の感覚作用を通して佛性を確認する方便に固執せず、深層にある佛性の遍満に気づき、個物が円成する塵塵三昧という華厳的世界の感得に至ることを究極とする構想であった。この玄沙「三句綱宗」の思想は実質的に馬祖の「作用即性」説によって始まった禅の思想が曲折変遷をへて到達した唐代禅のひとつの結論であったと論じた。
 土屋昌明氏(専修大学教授)「唐末五代の道仏関係」は唐末五代河北の道教の状況を新出資料から丹念に読み解き、房山石経事業にも道教寺院である龍興観の道士や唐朝皇族の女道士が関わり、河北の節度使が佛教に関心を寄せると同時に道教指導者とも政治的に関係を持つなど、当地の道佛関係は融合的であったことを示唆して、従来缺けていた臨済の時代の河北の宗教的風気を明らかにし、『臨済録』中の道教臭のある言葉の背景をうかがい知る考察を発表した。

 第4セッション〈日本における臨済禅〉(司会 中尾良信花園大学教授)は精彩のあるセッションであった。『臨済録』が日本にもたらされて以後の受容の情況と臨済宗の形成の問題は従来研究が缺落していたからである。
 末木文美士氏(国際日本文化研究センター名誉教授)「日本における臨済宗の形成――新資料から見た禅宗と達磨宗」は、近年称名寺金沢文庫と真福寺で発見され整理出版された新出資料にもとづいて、以下の思想史的概観を述べた。すなわち、通常栄西が臨済禅を伝えたとされるが、二度の入宋は釈尊以来の真実の佛法を求めるためであって、禅への関心は禅宗が佛陀の遺法を継承しているという系譜的正統性にあり、その悟りの重視は栄西の密教と合致し、清規にもとづく禅林の修行体制が佛教本来の姿に映ったことなどによる。臨済禅の移植という点では栄西よりも大日能忍のほうが早く、かつ当時の宋朝禅の本流であった臨済宗楊岐派大慧宗杲の法嗣拙庵德光(佛照禅師)に弟子を遣わして印可を受けた。能忍が「達磨宗」(達磨の根本の教え)を称していたため、栄西は区別する必要から特に「禅宗」の称を用いたのであった。能忍派の編になる『禅家説』(仮題)には黄檗希運『伝心法要』が収録されたが、『臨済録』は含まれない。「臨済宗」という宗派はかなり遅れて形成されたのであって、『臨済録』の依用は14世紀から17世紀、特に江戸幕府の宗派化政策によって曹洞宗と区別される「臨済宗」が意識化され、『臨済録』が宗典となったという経緯に注意する必要があると論じた。
 石井修道氏(駒澤大学名誉教授)「道元における臨済と大慧」は、道元禅師の臨済批判はこれまでも論じられてきたが、まず現存の仮名『正法眼蔵』はすべて禅師が寛元2年(1244)越前吉峰寺再住以後編集した75卷本であり、そこに臨済評価の変化が表れていることを確認する必要があり、臨済その人よりも大慧と大慧派への批判に主眼があること、したがって禅師の思想史的位置は鈴木大拙が提出した禅宗に三類型(道元禅、白隠禅、盤珪禅)があるのではなく、道元禅の位置は白隠禅と盤珪禅を包括した「禅宗」に対する批判的立場にあると論じた。
 柳幹康氏(花園大学国際禅学研究所専任講師)「鎌倉期臨済宗における『宗鏡録』の受容――圓爾と『十宗要道記』」は、鎌倉期の禅宗の情況を圓爾(1202~1280)の活動とその著『十宗要道記』を通して明らかにした。圓爾は入宋して無準師範の法を嗣ぎ、その要請に応えて当時の日本において禅を弘めるに際し、諸宗間の確執の解消と調和の必要を説き、そのうえで禅の独自性を主張したが、その理論的根拠を『宗鏡録』に求めた。当時権勢を誇っていた九条道家の外護を得て貴顕のあいだに影響を広げ、他宗の指導者もかれに参じて教えを請い禅戒を受けるなど、当時は『宗鏡録』が重んぜられ大きな影響を持っていたと論じた。
 ディディエ・ダヴァン氏(国文学研究資料館准教授)「室町の禅僧と『臨済録』」は、中世室町期における『臨済録』の受容の実際について考察した。一休宗純(1394~1481)が『自戒集』で兄弟子の大德寺養叟宗頤を批判した記述の中に「臨済録の談義」があり、『臨済録』が禅籍中特に重視され、これがのちに「抄物」と「密参録」に発展し、密参が公案禅に展開するのであり、しかもその関心の中心は「三玄三要」、「四賓主」等の「体系を具えた禅宗教理学」であったことを指摘した。
    
 第5セッション「東アジアにおける臨済禅」(司会 中島志郎花園大学教授)では、孟東燮氏(宗黙法師,韓国海印寺僧伽大学教授)「無位真人思想の実践的展開――西翁老師のチャムサラム(真人)結社について」は、1974年に韓国で初めて『臨済録』を刊行・翻訳した西翁老師(1912~2003)が、臨済禅師の「無位真人」を韓国の実情に合わせて「自覚した人間の本来の姿」と定義し、1995年から個人と国家の利己主義を超えるための「慈悲の実践と共同体の建設、社会参与」を旨とした「チャムサラム(真人)運動」を展開し、現在も弟子たちによって持続し、影響を持っていることを紹介した。ここには初期仏教の考え方と「無位の真人」の思想を結合し、韓国現代社会の諸問題を解決しようとする新しい運動の意義があると論じた。
 前川亨氏(専修大学教授)「雍正帝と臨済義玄――『揀魔辨異録』を中心に」は、明末の臨済宗内に起こった宗旨論争に百年後の清朝雍正帝が介入して決着をつけた事件を取り上げ、錯綜した論点を整理し、雍正における『臨済録』から永明延寿の『宗鏡録』、覚範慧洪、大慧宗杲の看話禅に至る思想史を『揀魔辨異録』中にあざやかに読み解いた。この論争は漢月法蔵がその師の密雲圓悟の「棒喝禅」を批判し、四料揀等の「宗旨」を臨済禅の本質としたことに始まり、『臨済録』をどう読むのか、「無位の真人」の一則をどう理解するのかにかかわっていた。雍正はこの論争を、臨済が黄檗より継承したのは棒喝であり、これが「直指人心,見性成佛」という禅宗の本質であって、いわゆる「宗旨」は知解にすぎず、臨済が情況に応じて繰り出した方便にすぎないと決め付けたが、その背後には弟子が師を批判する反秩序的行為が満清王朝下の不満分子へ影響を与えることへの警戒があったと論じた。
 王琛発氏(マレーシア道理学院院長)「マレーシアにおける日本仏教の曲折と運命」では、提出論文とは別に、南洋における禅宗の伝承について、三祖僧璨の弟子がヴェトナムに渡って独自の禅を伝え、『六祖壇経』は伝わらなかった、したがって独自の伝灯の系譜を持っていることを紹介した。詳細を聴くことはできなかったが、南洋の禅の伝承という問題に新たな関心を引き起こした。
何燕生氏(中国武漢大学・郡山女子大学教授)「近代的な〈語り〉における臨済及び『臨済録』――方法論的考察」は、20世紀の常盤大定・胡適・柳田聖山の『臨済録』研究をその方法論から学術史として論じた。常盤大定は中国の古代文化が破壊され衰退している現状を知って、1920年代の河北臨済寺をはじめ当時の中国佛教遺跡を実地踏査したが、そこには文献研究のみに満足せず、「千古の高僧碩德の遺址に立ってその霊を胸に懐い起こす機会を得たい」という宗教的心情があった。胡適は1920年代の新旧学問交替の時代にあって、新しい白話文学史と中古思想史を構想するなかで禅宗に注目し、禅宗の興起は印度仏教に対する「革命」であり、臨済義玄の平易な口語による説法は「知性の解放を中国禅の真の使命として認めた」意義をもち、禅師の言説や行為は歴史学的に見れば神秘的でも理解不能でもなく、弟子に事物の真相をみずから発見させるすぐれた「教育方法」なのであって、禅宗の歴史はその教育方法の発展であるととらえていた。柳田聖山は胡適の歴史学的方法に学び、臨済の生の声を聴くべく『臨済録』テキストの原型を探究し、注釈と口語訳を試みる精緻な文献学研究をなしたが、それは自らが属する臨済宗の宗祖という宗門的羇絆から解き放ち、臨済を「脱体制の自由人」と見る自己の夢を追い求めようとした歴程であった。こうしてそれぞれの方法によって形成された臨済のイメージは異なるが、そこにはそれぞれが処した時代の烙印が認められる。胡適と交流をもち、柳田を指導してきた入矢義高の研究は、漢語口語に対する卓越した学識によって画期的な『臨済録』理解を示した。いわば純学問的な探索というものが初めて出現したと結んだ。
 
 以上の基調講演を含む20篇の発表論文によって、世界における「『臨済録』と臨済禅研究」の最前線の情況を知ることができ、新資料、新知見による最新の成果が得られたことを、主催者の一員として喜ぶものである。なお、本国際学会論文集には二篇の花園大学教授の投稿論文(ジェフ・ショア「現代世界における臨済禅」、衣川賢次「臨済録の形成(改稿)」を附載している。また、論文集に資料編「『臨済録』研究史資料集」として、日本における研究史に関わる諸資料(抄物、提唱、研究書)の解題、戦後の研究史、および韓国における研究情況、英訳『臨済録』の比較紹介の諸文を収めているが、これは遠諱記念事業の一環として2年をかけて作成され、従来研究のなかった分野の資料集である。以上の諸論文と資料集は『臨済禅師1150年遠諱記念『臨済録』国際学会論文集』(日本語版)として来年(2017年)3月に禅文化研究所から出版される。

160514-4.jpg 国際学会第1日の終わりにジェフ・ショア氏と安永祖堂師(ともに花園大学教授)による禅セッション「Rinzai Zen Now」が行われた。アメリカ人のショア教授は毎年ヨーロッパ、アメリカで講義と坐禅指導を行い、安永教授は天龍僧堂で修行した罷参底の老師である。二人が壇上に禅を組んだ姿勢で坐し、安永師が聞き役にまわって、ショア氏が禅に興味を抱いた個人的な閲歴から現代欧米の禅への関心の在りかにいたる内容の対談がなされた。詳細は『禅文化』誌に掲載の予定である。

160514-6.jpg また、第2日朝には安永祖堂教授による参会者のための坐禅指導が無文記念館禪堂において行われた。

0514-2.jpg 二日間の研究発表の終わりには、佛教書肆法蔵館の西村明高社長から「最新佛教書出版事情報告」と題して、400年の歴史をもつ法蔵館をはじめとする京都の佛教書出版社の概況、現在の日本の仏教書出版の情況、出版情報への取り組みについてお話しいただき、研究とメディアのありうべき連携を考える機会となった。

 この『臨済録』国際学会にちなんで5月13、14日に花園大学情報センター(図書館)、国際禅学研究所、禅文化研究所が所蔵する『臨済録』関係書籍の展観「臨済録――版本から研究書まで」を開催し、研究者の参考に供した。

 国際学会第2日の夕刻には交流晩宴が花園会館で開かれ、記念演奏に葉衛陽、さくら氏による中国琵琶が披露され、その高度な技術と優れた音楽性は出席者の惜しみない賞讃を得たが、演奏曲目のひとつに馬防「臨済慧照禅師語録序」があった。これは妙心寺霊雲院則竹秀南老師の提案によって、このたびの国際学会のために葉衛陽氏が作曲し中国語で詠じた異色の作品であって、出席者をおおいに感激させた。

 国際学会第3日は、參会者が午前中妙心寺霊雲院に参拜して、則竹秀南老師の『臨済録』講話(「無位の真人」)を聴き、禅僧らしい生きかたを彷彿させる含蓄とユーモアに富んだ話に感心し、抹茶をいただいて歓談ののち、鐘楼のもとに眠る寸心居士の墓に詣でて辞去し、妙心寺法堂で狩野探幽筆「雲龍図」を見学した。天龍寺では栂正隆宗務総長のご好意で法堂の加山又造筆になる平成「新雲龍図」を拜観し、大方丈から曹源池を眺め、龍門亭(篩月)で精進御膳の接待にあずかった。午後は京都国立博物館へ移動して開催中の特別展覧会「臨済禅師1150年、白隠禪師250年遠諱記念『禅――心をかたちに』」を見学し、三日間にわたる国際学会のすべての活動を盛会裏に終えたのであった。
なお、会議と活動のすべてにわたって殷勤氏が熟練の中国語通訳をつとめられたことに、心より謝意を表したい(2016.6.1記)。