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一滴潤乾坤 (景徳伝灯録) いってき、けんこんをうるおす

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より

06月を表す季節の画像

梅雨中は雨また雨です。うっとうしい日が続きます。否!雨がうっとうしいなどといえる私たちは、幸せかも知れません。アフリカ諸国では大干ばつで、飢に苦しむ人が多数あると伝えられています。何億何十億の人が、「雨よ降れ! 雨よ降れ! 降ってくれ!」と祈っています。
一滴、乾坤を潤す! 誠に言い得て妙です。一滴の水でこの宇宙乾坤を潤すことができるというわけです。もし一滴の水もなくなってしまったならば? 考えただけで恐ろしくなります。一滴の水がよく大地を潤し、樹木草花を育み、緑に輝く地球を作りあげます。
もちろん理屈からいえば、「一滴の水から」と不思議かも知れません。禅では絶対的見地から、大小、長短、広狭の区別を超えて、一滴の水でも大海の水と同じであり、一粒の米でも万岳の大きさに匹敵するというのです。一滴、乾坤を潤す。一滴の水に、一粒の米に絶大の価値を見出し、そのところにもったいないと思う心を学ばなければ、この句に参じたとはいえません。
江戸時代の農政家として有名な大原幽学(1797~1858)は、尾張藩(愛知県)の出身で、若い時から修学の旅に出て、神道、儒教、仏教を学びますが、今一つ、心から納得できませんでした。そして二十五歳の時、近江国の松尾寺で提宗和尚と出合います。高倉テルは、小説『大原幽学』(アルス)の中でその出合いを感動的に述べています。
教えを乞うた幽学は、いきなり、台所へ連れて行かれ、米をとがされます。
「お前のコンジョウが、どれだけ、くさっているか、ショウコを見せてやる。いいか? ここに、一つぶの米がある。これは、いま、お前が、とぎながら、ながし元へ、こぼしたものだ。一つぶの米くらいと、お前は、思っているだろう。それが、いかん。それだから、何も、かも、まちがって来る。一つぶの米が、どれほど大せつなものか、教えてやろう。密道(小僧)のヘヤに、ソロバンがあるから、持ってこい。一つでは、たりない。二つ、持ってこい。」
幽学は、小ボウズに、ソロバンを二つ借りてきて、提宗の前へ、おいた。
「一つぶの米が、地へ落ちると、それから、二十四の芽が出る。二十四の芽は、二十四本の稲となり、二十四本の稲は、秋に、本来なら、それぞれ、三百つぶのミを結ぶ。すると、一つぶの米は、その秋に、幾つぶの米となる?」
幽学は、ソロバンを取りあげた。
「七千二百つぶ。」
「一合は、幾つぶだか、知っているか?」
「…………」
「およそ、五千五百つぶ。七千二百つぶは、一合四勺たらずになる。」
「…………」
「その七千二百つぶを、翌年、そのまま、まいたとする。七千二百つぶが、それぞれ、七千二百つぶのミを結ぶ。その年の秋には、幾つぶの米が取れる?」
「五千百八十四万つぶ。」
「それを、マスに直すと?」
「九石四斗二升五合たらず。」
「三年目には?」
「三千七百三十二億四千八百万つぶ。マスに直しまして、六万七千八百六十三石二斗七升三合たらず。」
「四年目には?」
「十億、百億、千億、兆、……兆のうえのカズを、私は、存じませんが。」
幽学は、ワナワナと、ふるえた。
「マスに直して?」
「四億八千八百六十一万五千五百六十三石六斗三升六合あまり。」
……(中略)……
「一つぶの米は、ただで、この世に生れて来るのではないぞ。……それの分からん人間には、何にも分からん。そのおかげで、お前も、これまで、生きて来たのではないか? 見たこともない、百姓の、お前にたいする、無限の愛。その、ありがたさ。それを、この一つぶの米のなかに、くみ取ることが出来なければ、お前は、人間ではない。ケモノのだ。」
「一滴、乾坤を潤す」、消費は美徳といわれる昨今、もう一度心に問い直す語ではないでしょうか。