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鉄樹開花石笋抽条 『大灯国師語録』巻中 てつじゅはなをひらき、せきじゅんえだをぬく

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

08月を表す季節の画像

鉄の木に花が咲き、石の筍に枝が生える。現実にはそんなことはないが、人間の心の世界にはありうる。それは無心のはたらきによるものです。
自我のない無心な状態を鉄樹といい、石笋といっているのです。無心といっても喜怒哀楽の情をまったく失ってしまったわけではありません。喜怒哀楽しながら喜怒哀楽をしていると意識していない。ちょうど赤ちゃんみたいなものです。赤ちゃんは夜中に泣いて、朝になって、「ああ、昨夜はよく泣いて、お母さんに申しわけないことをした。あんなに泣かなければよかった。隣まで聞こえたそうだ。ああ、恥ずかしい」などと思うはずがない。「おしっこを漏らして恥ずかしい」などと思う赤ちゃんはいない。天真爛漫に泣きたいときは泣き、おしっこしたいときは、おむつをしていようがいまいが、よその奥さんの晴れ着の上でもおかまいなくやってしまう。といって悪いとも恥ずかしいとも何とも思わない。これを鉄樹というわけです。思慮分別を超えた無心なはたらきに喩えます。
 心に思いわずらうことが何もないということで、石の筍も同じ意味です。赤ちゃんほど喜怒哀楽の情の豊かな人間はないでしょう。気分がよければすぐニコニコしますし、目が開いていさえすれば、見るもの聞くもの何でも珍しくてしようがない。ジッとしている時がない。盛んに心をはたらかせ、体を動かして、しかもそうしているという思いはない。無心だから、眼耳鼻舌身意という感覚を通して感じることは敏感に感じて、無心に表現している。大人は無心でなくなりますから、たとえば畏まってお座敷に坐っていて足が痺れても、痺れていないような顔をしなければならないが、赤ちゃんはそんな我慢は少しもしません。
 その無心さから、いろいろな表現が計らずも出てくる。それが本当の喜怒哀楽、豊かな人間性というものでしょう。
 やはり、いっぺん死にきってみるということです。笑うときには本当に笑い、泣きたいときには本当に泣ける。無心であればこそ、正直なうそのない表現ができてくるものです。
類語に「鉄樹花開く二月の春(鉄樹花開二月春)」という言葉があります。二月は旧暦の二月、新暦の三月で、春たけなわの見事な心の花々が咲いたということ。また「鉄樹花開く別に是れ春(鉄樹花開別是春)」という語句もあります。鉄の木に花が咲いたのですから、これは別天地の春だ。先の「枯木花は開く劫外の春」と同じ意味で、いずれも、空なる無心の心になったればこそ巧まずして発動する豊かな人間性、無心であればこそ笑うときに笑えて、泣くときに泣ける。そうした境界を歌っているのです。