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日出乾坤輝 雲収山嶽青  『禅林類聚』巻二/『槐安国語』巻一 ひいでてけんこんかがやき、くもおさまってさんがくあおし

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

08月を表す季節の画像

「雲収」を「雨収」としているものもあります。

 日出でて乾坤輝き、雲収まって山嶽青し

 太陽が顔を出すと天地は輝き、雲が消え去って、山の青々とした緑が鮮やかだ。こういう自然の一つの情景を歌っています。しかし、これが床の間のお軸として掛けられた場合は、単に自然の情景だけを歌ったものだという見方をしただけでは困ります。そこに禅語の禅語たる所以があります。天然自然の現象、そしてまた人間の何でもない行動に、天然自然の原理、人間のありようというものを見ていくのが禅語です。ですから、絵画的な情景だけを味わうのではなくて、そこに私たちの人生の意味合いというものを受け取っていかなければならない。

 そもそもは『禅林類聚』(ぜんりんるいじゅう)という本に出てくる言葉ですが、それだけでは意味がわかりにくいので、そこにこめられた意味合いを受け取るために、白隠禅師の『槐安国語』(かいあんこくご)の一節を紹介します。

 『槐安国語』とは、大徳寺の開山である大灯国師の語録に、白隠和尚が、評唱すなわち論評、著語すなわち寸評を添えたものです。題名の槐安国は中国の故事による。槐という木の下で、昼寝をしたある人が、夢の中で、その木の下の大きな穴の中へ入って行くと、その地下に槐安国という国があり、大きな蟻が住んでいた。蟻の王の下には小さな蟻の家来が無数に住んでおった。その広々としたたいへん結構なところで、その人は何日も過ごした。そして目が覚めて傍らを見ると、槐安国で見たのと同じような蟻が歩いていた。目が覚めていま大きな蟻を見ているのは夢なのか、蟻の国へ行ってきたのは夢ではなく現実のことであったのか、といったお話です。私たちはいま目が覚めていると思っているが、もしかしたら、これは夢かもわからない。八十年たって人生を終えるときに、ハッと目が覚めて、「ああ、夢だった」ということになるかもわからない。そういう中国の故事があります。

 大灯国師の問答は、夢の中で行った槐安国の蟻が喋った言葉なのだ、本当に夢から覚めてみないとわからない言葉なのだ、ということで白隠禅師は『槐安国語』と名づけたわけです。この中に、次の言葉が出てきます。

仏誕生に上堂す。僧問う、「世尊初めて降生して、天を指し地を指し、周行七歩して云く、『天上天下唯我独尊』と。意旨いかん如何」。
師云く、「日出でて乾坤輝く」。仏誕生に上堂す。上堂は、壇上に和尚があがって、修行者たちに説法すること。
四月八日、仏さまのお誕生日に大灯国師がお説法をされた。

そのときに、ある僧が質問しました。

「世尊初めて降生して、天を指し地を指し、周行七歩して云く、『天上天下唯我独尊』と。意旨如何」

 お釈迦さまがお生まれになったときに、七歩あるかれて、そして天と地を指さして、「天上天下唯我独尊」とおっしゃった、と伝えられていますが、これはどういうことでしょう。いかに偉い方といえども、まさかそんなことがあったとは思えないけれども、これはどういうことを伝えようとして、そのようにいわれるのでしょうか。

そこで、大灯国師がお答えになりました。

 「日出でて乾坤輝く」

 お釈迦さまは生まれたばかりの赤ん坊なのに、こういう不思議な行動をなさった。
お釈迦さまが、迷いが渦巻いているこの人間の世界にお生まれになったのは、ちょうど太陽が昇って、この世界に光を投げかけ、天地が輝くということと同じことなのだ。

 一応、このように受け取ることができますが、それだけではもう一つはっきりしないところがある。お釈迦さまは赤ん坊なのに、生まれてすぐに、なぜ七歩も歩いたのか。そして天と地を指さして、「天上天下唯我独尊」といったのか。「日出でて乾坤輝く」、この言葉だけでは、この質問僧の疑問に万全に答えられたというわけにはいきません。

大灯国師は、この言葉にどういう意味合いを、今の言葉でいうならば、どういう付加価値を含めておっしゃられたのか。

 インドはマンスーダといって七進法です。七がマンスーで、周行七歩、七歩あるかれたということは、この世界をグルッと一回りなさったということ。お釈迦さまは、世界と自分とが一つの人であったということです。お釈迦さまは、小さな自己というものにはまっている人ではなくて、大きな世界を包含した、世界をおなかに収めたような方であったのだ、という思いから、お釈迦さまの誕生を祝福する伝記作家がこういう表現をとったのでしょう。
一つにはそう考えられます。

 もう一つの説があります。人間は六道輪廻するといわれる。六道というのは六つの迷いの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上です。天女が舞っているという天上界も、お釈迦さまの目から見ると、まだ迷いの世界なのです。この上に声聞・縁覚・菩薩・仏という世界があって、これらを全部ひっくるめて十界というが、その十界のうちの下から六番目までが六道、迷いの世界です。悪いことをすると死んでから地獄に堕ちるなどといいますが、私たち人間が地獄の住人のように浅ましい、恨めしい心を起こすとき、私たちは地獄に堕ちているといえる。また何時間も何も食べずにいると、だんだん餓鬼道に堕ちて
いくが、ご飯をいただくと、その餓鬼道から逃れることができる。というふうに、私たちは日々にこの六道輪廻をおこなっている。ところが、お釈迦さまはこういう迷いの世界の六道から一歩外へ踏み出した方であるというわけで、七歩ということがいわれたのであろう、という説もとなえられています。

 そういう理屈は実はどうでもいいのです。お釈迦さまのお悟りという観点から、そのお誕生というものを眺めるならば、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったということに尊い意味合いが含まれているのです。すべて人間というものは、生まれながらにして仏の心というものが具わっている。修行してその仏の心、円満な人格というものができるのではない。修行など何もしなくても、すでに生まれたときから具わっているのだ。そういうお悟りを開いた方がお釈迦さまです。ですから、その当のお釈迦さまがお生まれになったのだから、それこそ円満な心を持った赤ちゃんであったに違いない。お釈迦さまがこの世に生まれたときの泣き声は、やはりオギャーだったに違いないけれども、このお釈迦さまのお悟り、教えをよく心得た伝記作者は、このお釈迦さまのオギャーをオギャーとは聞かなかった。「天上天下唯我独尊」と聞いたのです。

お釈迦さまのこの「天上天下唯我独尊」という言葉は、自分ひとりが尊くて、あなたたちは賤しい、ということではありません。

 余事にわたりますが、このごろの若い新聞記者は、日本の伝統的な文化に対して無知で、記事によく間違いが見受けられます。
例えば、「他力本願」という言葉を、自分では何も努力しないで安易に人さまのおこぼれを頂戴するのを待っている、という意味に用いられて本願寺は困っておられる。宗教上の問題ですから、マスコミの方はもっと用心して記事を書いてほしいものです。このお釈迦さまの「唯我独尊」もそうです。世間の中でわしが一番偉いのだという表現をするときに、新聞では往々にして「天上天下唯我独尊」という言葉を使ったりしていますが、これは大きな間違い。その人だけの間違った理解にとどまっているだけならまだしも、天下の公器ともいわれる新聞にこれを出しては、これから育って勉強していく人たちが、また間違った受け取り方をしてしまいます。
「天上天下唯我独尊」とは、私だけが一人尊くて、他は尊くないという言葉ではありません。私が尊いように、皆さん一人ひとりも同じように尊厳な人格の持ち主である。だから人間みな一人ひとり尊い存在なのだ、ということです。私も自分が大切なように、他の皆もそれぞれ自分が尊いのだ。だから、自分の人格を認めると同時に、他人の人格も認めていかなければならない。そういう尊い人格というものを生まれながらにしてお互いに持っているのだから、お互いに合掌し合っていかなければならないということです。

 お釈迦さまは、お互いは生まれながらにして侵すべからざる尊厳なる人格を持っているのだとお悟りになった。ですから、そのお釈迦さまのご誕生についての表現が、「天を指し地を指し、周行七歩して云く、『天上天下唯我独尊』」ということになったのだと思うのです。

 そこで「日出でて乾坤輝く」という大灯国師のお答えの意味合いについての話になります。

 私どもにはいろいろ迷いの雲があります。ところが迷いの雲があっても、生まれながら具えている円満なる人格、すなわち仏心というものは消えたわけではない。迷いの雲によって外へ現われないだけなのだ。だから、その仏心という太陽が顔を出しさえすれば、迷いの雲に遮られている闇は、たちまちなくなるはずなのです。

 迷いを片づけてから清々しくしようといっても、それはなかなか難しい。迷いがなくなるなんてことはありません。なくならないものをなくそうとしても無理です。お金儲けの下手な人がお金儲けしてから温泉へ遊びに行こうと思っても無理なのと同じです。お金のないまま、安宿でもいいからと温泉に行ってしまえばいいのです。迷いを片づけてから仏心を輝かそうというのではなくて、迷いの雲はそのまま置いておいて、仏心という太陽を光らせると、今まで闇のようであった世界が、たちまちに輝き出して、いつの間にやらその迷いの雲というものもどこかへ行ってしまう。

 そして、自分の心の中に仏心という太陽が顔を出して輝き出せば、世界もまた輝いて見える。草は草のまま、木は木のまま、子供は子供、大人は大人、年寄りは年寄りのままで、一人ひとりがそのままで仏の姿であったではないか、と受け取ることができる。「諸法は実相」、すべての存在は、そのままで真実の姿を現わしている、と受け取ることができます。そのように「日出でて乾坤輝く」という言葉を受け取ります。

 その対句として「雲収まって山嶽青し」とありますが、これも自ずからわかっていただけると思います。雲はすなわち私自身の迷いの雲。迷いの雲がなくなるならば、正しい人間性というものが鮮やかに浮かびあがってくる。仏心を自覚すれば、迷いの雲は消えて、正しい人間性が輝き出すということです。
 太陽に照らされたら、万物は精彩を放ちます。これを回向返照という。月や太陽に私が照らされて光を放つ。しかし、照らされっぱなしで満足していてはいけません。照らされたら必ず照り返さなければならない。日出でて天地が輝くという意味合いは、日に照らされた天地自身がまた照り返して光を放つということです。太陽の恵みの光を私がいただき、そして今度はその自分自身が光り輝いて周囲を照らす。人間もそういう存在でありたいものです。