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月知明月秋 花知一様春   『禅林句集』 つきはめいげつのあきをしり はなはいちようのはるをしる

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

09月を表す季節の画像

 秋になると、澄んだ夜空に月はその輝きを増し、春ともなれば、花々は一斉に咲きほこる。花は人間と違って、季節が移り変わったから、ボチボチ花を咲かせようか、ということを思って咲かせるわけでは、もちろんありません。まことに無心です。月も無心です。ただ輝き、ただ咲く。

 無心ですが、季節の移り変わりというものをちゃんと知っていて、それに応じた適切な活動をします。そのはたらきを自然法爾じねんほうにといいます。自然な無心なはたらきそのものが立派に真実にかなっている。思想や哲学という理念にのっとって行動して理にかなうのではない。無心のままに動くことが、そのまま真実にかなっている。

 月は明月の秋を知り、花は一様の春を知る

空気の澄んだ秋の夜ともなると、月が夜空に皓々と照り輝きます。あたかも、秋の清澄な夜空を待っていたかのごとく輝く。なごやかな陽がさす春ともなると、花々は百花繚乱と咲き誇ります。あたかもその季節がくるのを知っているかのごとくである。

 月や花がそうであるように、人間も、四季を彩る巧まざる自然の演出に触れて、あるときフッと、「ああ、春がきた」「秋だなあ」と思う。とくに秋ともなると、人それぞれいろいろな思いをします。

 ところが、近ごろはそのような季節感というものが薄らいできたようです。夏に咲くハイビスカスが花屋には秋にもあります。花だけではありません。茄子だってキュウリだって真冬に売っています。だから子供に、「茄子はいつできるのか」と聞いても知りません。そのように季節感がなくなってしまった。昔は野に咲く花を見たり、一輪の活けられた花で季節の移ろいというものに驚いたり喜んだりしたのですが、今ではそういうことも少なくなりました。本当に季節感がない。

 近ごろは、晩になっても夜空を仰ぐこともありません。現代人は本当に上を見なくなったものだと思います。人にぶつからないように歩かなければならないし、車が行きかうから、上を見て歩いていたら交通事故に遭ってしまう。歩行者がそうですし、もちろん車を運転する方は、それこそ上なんか見ていられない。前後左右に気をつけて、交通信号をよく見て運転しなければならないから無理もありませんが、本当に夜空を仰ぐということが少なくなりました。

 そのように私たちは季節の移り変わりに鈍感になってしまった。ところが、鈍感になったのは人間だけです。月や花は一瞬たりともその季節を違わず、忘れることがありません。秋になって清澄な夜空を迎えれば月は輝くし、春になってなごやかな陽ざしがさしてくれば、人が見ない道ばたにでも花を咲かせている。そのように時の利を得て、大自然においては咲くものは咲き、輝くものは輝いています。

 人間も、人生の花を咲かせます。歴史上に登場した偉い人物を考えてみると、大きな時代の流れの中で、むしろ時代が要求してその人物を生み出したといえましょう。ちょうど月が秋の季節の到来を知っているかの如く夜空に輝くように、花が春の温暖な季節の訪れを知って咲くように、人間の世界もその時代にふさわしい人物が現われる。その時代に出るべくして生まれ、時を得て、月や花のごとく出現した人々がたくさんいます。
そんなことを考え合わせながら、「月は明月の秋を知り、花は一様の春を知る」とそらん諳んじてみると、単に自然の風物だけを歌ったものではない味わいが出てきます。