禅語

フリーワード検索

アーカイブ

泣露千般草 吟風一様松 『寒山詩』 つゆになくせんぱんのくさ かぜにぎんずいちようのまつ

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

10月を表す季節の画像

夜露に濡れて草々は涙をこぼして泣いているかのようだ。松の木々は風に吹かれて詩を歌っている。
静かな秋の朝の情景です。寒山という山の、実際の情景を歌ったものですが、また、同時にこの寒山という山で過ごしていた寒山自身の心を歌ったものです。寒山その人自身の心の風景として見ていかなければなりません。では、この寒山の心の風景たるや、いかなるものか。
                                  

 笑う可し寒山の道         可笑寒山道

 而も車馬の蹤無し         而無車馬蹤

 聯谿れんけい、曲れるほどを記し難く    聯谿難記曲

 畳嶂じょうしょう、重なるほどを知らず    畳嶂不知重

 露に泣く千般の草         泣露千般草

 風に吟ず一様の松         吟風一様松

 此の時、径に迷う処        此時迷径処

 形は影に問うに、何こよりすと   形問影何従
                            

笑う可し寒山の道、而も車馬の蹤無し
「おもしろいではないか、寒山の道は。道があるのに馬車の通った跡がない」。寒山にもちゃんと道はあるのに、馬車の跡もない、誰も来ないといって、寒山自身が笑っている。道が開かれているのに登って来ない人に対する嘲笑や、世間を離れて山中に訪れる人もなく、一人暮らしをする寒山自身を自嘲する笑いでもなく、おもしろがっているのです。なぜ、おもしろいのかというと、この寒山の絶景を人々に見せてやりたいものが、この景観を訪れる者はいない。道は大きく開かれているが、この寒山の境地の如きわれ自身を訪ねてくる者も、また案外いないものだ。お蔭で独りこの境地を楽しめる。その山の景観と寒山自身の境地とをダブらせて笑っているのです。これは寒山が独脱安心のゆとりに居るからです。
「この道や来る人もなし秋の暮れ」という句がありますが、独居を楽しんで俳句に作っているゆとりがここにはある。寒山も「笑う可し寒山の道、而も車馬の蹤無し」といって、おもしろがっている。そのゆとりのあるところを、見落としてはなりません。馬車がくる道ですから、細い田圃道ではない、大きな道です。この大道は、誰でもいらっしゃいと、いつも開かれているというのに、誰もこない。いつも開業閉店みたいだと、寒山がおもしろがっているのです。寒山は一人住まい、孤独、単独者です。人間はしかし、根源的にはみんな一人です。天然自然に従っていくならば、人間は生まれるのも一人、生きているときも一人、死んでいくのも一人です。他人がいかに親切にしてくれても、自分の人生をその人と取り替えるわけにはいかない。また、他人の人生を、いくらうらやましいと思っても、その人の人生と取り替えることはできない。一人ひとりの人生は単独。それが万人共通のあり方です。単独が万人共通の普遍的なあり方であるということをふまえておかないと、人は往々にして独善に陥り、自分の殻の中に閉じ籠もってしまう。また、「車馬のあと蹤無し」、大通りは通っているけれども、誰も来る人がないという、孤独、単独。それが一人だけのものではなく、万人に共通する普遍的なものだということになると、人間全体のあり方は、私一人のあり方の中に含まれる。また、私一人のあり方が、すべての人々のあり方に通ずる。私だけが特別に、人々に想像もつかない心のはたらきをするわけではない。みんな同じ心のはたらきをする。だから、心理学という学問も成り立つ。もし一人ひとりの心がまったく違うはたらきをするのであれば、現にこうして話をすることもできません。。
すべての人間の心のありようは、私一人の心のありように含まれ通じている。お釈迦さまは、そういう心の道筋というものを示して下されたのです。そして、そのお釈迦さまお一人の悟りは、すべての人間の心につながっているわけです。
そのような一人が、本当の一人ということです。個人は人間全体を代表するもの、私のありようは、人間全体のあり方を含んでいると、そう思い至ったときに、私という一人は本当の一人になれる。主体的な、まことの一人になれるのです。ですから、この寒山の一人のありようは、万人共通のものを含んでいる。すべての人間に共通なものが、寒山自身の心の大道です。そして、その大道を歩く人間はなかなかいないものだ、と寒山はおもしろく思うのです。
                          

聯谿、曲れるほどを記し難く、畳嶂、重なるほどを知らず
連なる谷々を、道はいく曲がりしていることやら、いちいち覚えきれない。そして幾重にも重なる峰々は、何重かさなっているのか見当もつかない。
                                           

寒山はそんなところに住んでいる。なかなか寒山の心境たるや、計り難いものです。
私たちの心の真実、心の真理というものを、仏心と簡単にいってしまいますけれども、十重二十重に折り重なっている山々を乗り越え、谷を経巡って行かなければ、なかなかその仏心には辿りつかない、ということでありましょう。また同時に、仏心というものは、簡単に壊れるものではない、幾重にも山が取り囲んで、その仏心は壊れないように護られているのだ、そう受け取ってもいいと思います。そして、その谷を巡り、山を越えて行った先の庵の景色はどうかというと、
                  

露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松
「露に泣きぬれた千々の草々、風にうそぶく一様に生え広がった松」。寒山の庵の結ばれている風景ですが、これがすなわちそのまま寒山自身の境界です。

白隠禅師が、ここに注釈を入れて、「寒山九虎の嶮関なり・・・寒山は九匹の虎に守られた関所だ」といっています。関所を守る虎が、ここは通さんぞと蹲っているような、たいへん険しいところなのだという。しかし、骨折って、九虎のいる関門の向こう側に通ることができるならば、「満口一団の滋味は心ず万劫の饑を消し、寒山の秘訣は一見して即ち徹了せん」、腹一杯ご馳走をたらふく食べたように満足して、その上、永久におなかを減らすことはなくなるだろう。そして、この「露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松」という境地を、寒山の心の奥義というものを、はっきりと見届けることができるだろう。こう、白隠和尚はいっています。
単に字面だけを見ると、通りいっぺんの詩のようですが、その意味たるやまことに深遠で、そうやすやすとは受け取り難い言葉なのです。寒山の庵を取り巻く風景、風物を歌いながら、実は禅というものの骨格、禅というものの根本法理が、この一連の何でもない詩の中に動いている。禅の法理などというと、理屈っぽくなってしまいますけれども、理屈とか思想とか哲理とかは、跡形もなく消え去って、大自然のありようと一つに融合してしまった、そういう寒山の心境です。
思想や理屈が消えてしまって、「露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松」というところに、禅の哲理というものが、陽ろう炎のごとくここに動いていることが読み取られなければなりません。それが会得できるためには、この九虎の嶮関を透過するほどの者でないといかん、白隠禅師はそういっておられる。みんなも寒山和尚と同じように、ひとつこの九虎の関所を通り抜けて、一人ひとりが寒山和尚と同じ心境になってみないか、と白隠和尚は勧めているわけです。

それでは、どうすれば透過できるのか。猿が水面に映った月を取るという喩えがあります。思想や哲理は本を読めばそこに書いてあり、理屈では、「ああ、そうか」と理解することができます。けれども、それは理屈としての理解であって、生きた真理を捉えたことにはならない。猿が水に映る月を取ろうと思って、水の中に手を突っ込んだら、もう月は砕けてしまう。同じように、その真実をどうしたら捉えられるかと、頭を使って理屈で考えたら、それはもうどこかへ行ってしまう。それを捉えようという身構えをした途端に、生きた真実というものはなくなってしまうのです。禅の言葉に「平常心是れ道(平常心是道)」といいます。当たり前の心が真実の道ということです。それなら、当たり前の心にどうしたらなれるかと、心構えをし、身構えをしたら、もう当たり前ではなくなってしまう。そこに、難しさ、厳しさがあるのです。
生きた真理というものは、直にこの体と心で体得するより他に手はありません。いろいろなことを頭で考え、推測したり思慮しますが、知性というものを離れずに生きた真理を捉えることはなかなか難しい。
「露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松」という詩語に隠されている生きた真実は、これを百ぺんぐらい唱えてみると、何だか伝わってくるような心地になります。不思議なものです。寒山一人の境地は、万人共通の普遍的なものであるのですが、九虎の関門を越えないから、私たちにはなかなか理解できない。けれども、この詩を百ぺん読んでみてはいかがでしょう。私は新幹線で九州から帰ってくる間、車中でずっとこればかり読んでおりました。これを禅の公案として参じてきたのです。言葉の一応の解釈を汲み取り、その上でなんべんも読んでいくと、わずかながら寒山の心の姿というものが、浮かびあがってくる。人も通わない山中で、一人笑っている寒山の境地が、私のものになってくるのだから、一人は全部、全部は一人ということが伝わってくる。
そういうことは、理屈を超えたところにある。ある程度は理屈で解釈し、推量し、思慮するということが必要ですが、あるところまで行ったらそれを飛び越える。飛び越えたところに安心の境、「平常心是れ道」といわれる世界が展開するのだと思います。

ところが、それがなかなか飛び越えられない。私たち現代人はどうしても知性が先行しがちですから、その知性でものを判断してしまいます。そしてもう一つは「我」です。知性と我と、この二つで何でも裁いてしまう。この二つから離れることが、なかなか難しい。実はその難しさが、嶮関を通ることを難しくしているのです。
しかし、寒山の心境は万民に普遍的なものであるから、私たちの中にもあるわけです。寒山の真実というものは、生まれながらにして具わっている。本来、具わっているその真実にどう従って生きていくかということが人間にとっての課題ですが、前述したように、自分の知性と我でそれが妨げられてしまう。しかし、妨げられるから駄目かというと、眼・耳・鼻・舌・身・意という六感を通して、その真実は常に自由にはたらいている。生きて活用されているのです。
ともかく、九虎の関門を通って寒山の心境を体験することが大切ですが、それなら最後の関門はどういう関門かというと、こういうおしゃべりも絶した世界です。私がこんな解説をしているのは、そこに至っては、下の下ということになります。その世界を寒山は「露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松」と吟じたのです。言葉でいっていたのでは追いつかん。言葉を離れてしまって、なんでもない秋の朝露にぬれている草を歌い、風になびいてうなっている梢を歌う。そこには理屈も何もない。知性を没却している。没却したそこに、何ともいえない静かな雰囲気というものが現われ出る。それが詩の力だと思います。
実は私たちの心というものもそうです。元来、理屈を超えたものが、私たちのまことの心のはずです。ですから、最後の関門は、悟った、なるほどわかったというような意識からも抜け出さなければならない。「露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松」は、そういう意識から抜けきっている境界です。そして、それはそのまま実際の寒山という山の景色であり、自然の動きでもあるわけです。
                        

此の時、径に迷う処、形は影に問うに、何こよりすと
此の時というのは「露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松」という心境、風景に出てきた時です。
                                           
修行を積み重ねてこの九匹の虎が守っている関門をやっと通り越して辿りついたみごとな世界。そこで「やっと辿りついたなあ。ここへくるのが目的だった。やっと着いた。さあ、帰ろう」と思ったら、「はて、わしはどうきたのかな」と道がわからなくなった。そこで、人に問おうと思うのですが、気がついたら人っ子一人いない。仕方ないから「形は影に問う」、自分の体が自分の影法師に聞く。自問自答しているのです。
「十年帰ることを得ざれば、来時の道を忘却す(十年帰不得、忘却来時道)」という禅語があります。同じく『寒山詩』の中にある言葉です。凡俗な心を起こして迷っていたが、一所懸命修行して悟りを開いみたら、もう凡俗な心を起こすことを忘れてしまったというのです。俗情の糸がプッツリと切れてしまって、自己のうちに隠されていた生きた真実という
もの、「本来の面目」が現われ出てきた境界です。

そういう境地は、誰にもわかってもらえない。肉体が自分の影に、「おれはどこからここまでやってきたのか。道がわからなくなった。おまえ知らないか」と問うている。まことに単独な世界ですが、その一人は万人を含んだ一人です。しかも、寒山は自分が到り得たそのところで、いつも門戸を開いて人を待っているわけです。大きな道をつけて待っているけれども、そこに馬車に乗って訪ねてくる者はいない。「いっこうに誰もこないなあ」と、寒山は笑っているのです。
その笑いは、到るべきところに到り着いた者の悠然たる余裕のある笑いだ。呵々大笑だ。寒山は一人であるけれども、その自分の境地を楽しみ、遊んでいるのです。そういう意味合いで、この「露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松」という禅語を味わっていただきたいと思うのです。
凡情で起こす喜怒哀楽の情は、とかく迷苦につながる。凡情を滅却した草木こそ道の達人である。情識なくして草は露に泣き、松は風に吟じているではないか。これこそまことの喜怒哀楽であり、再び凡情に帰ることはない。これが寒山の佳景であり、この山中に独居を楽しむ寒山自身の心の風景である。