禅語

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白浪起青岑 (『禅林類聚』巻二「仏祖」) はくろうせいしんにおこる

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

11月を表す季節の画像

白浪青岑に起こる  
岑は峰と同じ意味ですから、白い波が緑の山に波立ったということです。現実にはあり得ないことですが、こういう理屈に合わないことが禅語にはたびたび出てきます。こういうところを禅門では「本分の機語」といいます。禅的はたらき、禅機を表現する言葉、ということですが、これは何か摩訶不思議な奇跡が起こったということではないのです。

 例えば神戸の須磨公園のロープウェイに乗って山上に行くと、夏などはまことに緑がきれいです。そのきれいな緑の山のことを、ここでは青岑という。今度は展望台に立って須磨浦の海岸を見渡すと、白い波がザブンザブンと波立って押し寄せてくる。そしてジッと見惚れているうちに、自分が今、須磨浦の山の緑したたる中にいて、眼下の白く波立つ波を見ているという意識もなくなってしまいます。無心に「ああきれいだなあ」と思う。そんなとき、見ている私とその白い波とは一つになっている。私が波を見ている、波が私に見られてい
る、という対立はない。無心に自分と波とが一体のものとなる。それを客観的にいうならば「白浪青岑に起こる」という表現になる。自分は緑の山の中にいて、波と一つになるのですから、緑の山に波を起こしたということになる。
 そのような心の自在さというものが、人間にはある。人間がそのような自由を自己の心の中に見るとき、「白浪青岑に起こる」という言葉が生まれてきます。分別や知識では、これはわかるはずがない。能動的自他不二の境地です。