花は発く無根の樹 根のない木が花を咲かせる。こういうことはあり得ません。
魚は跳る万仞の峰 魚が万仞の山の頂きで飛び跳ねている。これもあり得ないことです。
いずれも、どういうことを意味しているのか、と考えても簡単にわかる話ではない。これを「本分上の事」という。すなわち、思慮分別を超えた世界の自由なはたらきをいいます。
根っこのない木に花が咲くなんて、理屈に合わないことだが、理屈ではあり得ない、思慮分別を超えたことを、実は私たちは日常生活で行っているものです。例えば、自動車の運転がそうです。学科試験が通ったからといって、実地における運転は、そう簡単にできるものではありません。運転に熟練した人は、もちろんいろいろな交通ルールを知ってはいるが、いちいちそのルールを頭の中で考えながら運転しているわけではない。無心にハンドルを操作し、自然に脚でアクセルやブレーキを踏むということになって初めて車が運転できる。
道筋に気になるものがあっても、その一箇所に心を止めていたら事故を起こしてしまう。かといって、四方八方に心を配りながらも、一箇所にもちゃんと心配りがされている。こういうことは、理屈でできるものではありません。訓練をしていなければならない。
自動車を運転するためには訓練をしなければなりませんが、私たちは本来、心を使うのには何の訓練も要りません。朝起きて顔を洗うのに、本を読んで顔の洗い方を研究したり、塾へ行って勉強してから洗おうという人はいない。自然に、自由に洗える。分別を離れ、理屈を離れて自由に動いている、そのことを、「本分上の事」といいます。
「心は万境に随って転ず、転処実に能く幽なり(心随万境転、転処実能幽)」、まことに不思議にも、私たちの心は、その場その場に対応して、理屈を超えて、自由に自然にはたらいている。それが人間の健康な心の状態です。理屈で自分の心の動きようをつらつら考え出したらノイローゼになってしまう。まさに、「転処実に能く幽なり」です。そのように心というのは根本的には自由なのです。
この心に根がありましょうか。根っこがないから自由にはたらくのです。心を木に喩えるならば、無根の木です。この根のない木には花が咲く。花とは心の花、自由自在にはたらく、きれいな花です。
「魚は跳る万仞の峰」、高い山の頂きに魚が跳る。魚が陸にあがってしまったら、どうしようもないと思うのは理屈、分別の世界のこと。魚が海中を自由に泳ぎ回るのと同じように、地上でも自由に活動する。これもやはり思慮分別を超えた、私たちの心のはたらきをいっているのです。
「さあ買い物に行こう」と思えば、スッと立って行く。右に曲がろうと思えばサッと曲がる。坐ろうと思えばトンと坐る。寝ようと思ったらゴロリと寝る。そのように人間は、心と体が一体になって、何のはからいもなく自由に動いている。こういうところに、人間の命の尊さ、不思議さというものを感じとっていくのが仏道です。そんなことはごく当たり前のことで、不思議でも何でもないではないかと思われるかも知れませんが、こんな不思議なことはないのです。
手の指は五本ある。一本を怪我して使えなくなるとたいへん不自由です。もう一本よけいにあるのがいいかというと、それでは邪魔になる。やはり五本がいい。誰が五本にしてくれたのかわかりませんが、この五本の指を、私たちは毎日当たり前のようにして使っている。指が五本あることをいちいち意識して使っている人はいないが、これはまったく不思議なことではありませんか。歩くときも、人間は何のはからいも分別もせず、二本の足を交互に出して歩く。しかも、左足が前に出ているときは左の手は後ろにいき、右足が前のときは右手が後ろになって、調子がとれて歩ける。何の分別もせずに、それを自由自在に、自然にやっている。
近ごろは、人間のように物をつかんだり、歩行したりするロボットができてきたようですが、これを作るまでに、どれだけの科学者たちの努力、技術者の苦労があったことかわからない。そうしなければできないようなことを、私たちは、生まれながらにして何も考えずに行うことができている。
そう思って、世界を見渡すならば、すべてが不思議です。松の葉が二本に分かれているのも不思議、緑色であるのも不思議、三つ葉の葉がきれいに三つついているのも不思議、食べると香りがするのも不思議。何もかもが不思議です。そういう不思議に囲まれて、私たちは自由な心のはたらきをはたらかせて生活している。まるで富士山のてっぺんで魚が泳いでいるようなものだ。そんな自由な心のはたらき、体の動かしようを、「花は発く無根の樹、魚は跳る万仞の峰」と、理屈で考えたらわからないような表現をして歌っています。