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心如水中月 『禅林句集』 こころはすいちゅうのつきのごとし

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

12月を表す季節の画像

心は水中の月の如し
私たちの心は、ちょうど水に映っている月のようなものである。水に映る月とは、どういうことか。

池水に夜な夜な月は通えども 心もとめず影も残さず

 晴れた日ですと、そこに水があれば、その水の面に夜ごとに月の影が映ります。しかし、月自身は、そこに影を映したからずっと映していたいという思いもありませんし、水のほうにもそういう思いはありません。また、清らかな水であっても月はそこに映り、泥池にもやはり映ります。清らかな水を好んで、いつも清らかな水だけに映るというものでもないし、汚い水だからといって、それを月の光が嫌うわけでもない。
 そのように、私たちの心というものも、汚いものだからといって、私たちの目を通して、これを見ないかというと、そうではない。汚いものでも見るし、きれいなものでも同じように見る。汚いものは見たくない、きれいなものはいつまでも見ていたいと思うのは第二念というものです。最初は見て「ああ汚い」と素直に思う。汚いから見るのは嫌だとか、きれいだからもう少し見ていようとか思うのは第二念です。第一念のときは無心にものごとを見ています。ちょうど月の影を水に宿すようなものです。
 流れの速い川の水であっても、やはり月影は流れているままに映ります。海の水が波立っていると、波立ったままに映る。そして、その水は常に流れ流れていきますから、月影はいつも同じ水に映っているのではない。水のほうはどんどん変わっている。変わっているけれども、映る月影は流れのままに映りながら不動である。変わるのは水。水の流れに映るその月の光は動かない。
 私たちの心も、常に変わっています。いろいろな感情を持ちますけれども、感情を持ちながらも、一つの落ち着いた心というものがある。水に流されてはしまわない月の光のように、動かない心がある。哲学者の西田幾多郎先生の歌があります。

吾こころ深き底あり喜も憂の波もとどかじと思う

 水の表面が波立つように、私たちにも憂いとか悩み、あるいは喜びとかの感情の波が立つ。波立つけれども、その波には関係なしに、水の底には湛々として、表面とは違う不動な心というものがあって、むしろ表面の波を眺めている。そういう心がある。

 「心は水中の月の如し」。人間の感情は常に波立って流れ流れている。感情の起伏のままに心の思いは常に動きながら、しかもその底に動かない心がある。流れる水に、流れずに宿る月影のような心。これが私たちの心だ。そして清濁あわせ飲む、清らかな水にも濁った水にも、月が影を宿すように、私たちのその心も、汚いものでもきれいなものでも、それを受け入れていく。しかも、心はそれにとらわれない。
 人間は褒められると嬉しいし、もっと尊敬されたいとも思う。何かしてあげたらそれ相応の報酬を期待したり、またいいことをすれば鼻に掛けたりする。そのように私たちは心に跡形を残してしまいます。しかし、水中の月は水に跡形を残さない。月が夕べ一晩中映っていたからといって、次の日、その水に何か光のようなものが残っているかというと、何も跡形は残ってはいない。
私たちの本来の心というものも何の跡形も残さないものなのです。水に映った月影のようなもので、その水に何の跡形も残さない。それが私たちの本来の心です。
もっしょうせき、跡形がない、そういう自由自在なはたらきをしているのが、本来の私たちの心であって、それは、ちょうど水中に映る月のようなものである。このことをまた古来、よく鏡に喩えます。よく磨かれた鏡に、きれいなものを映すとそのままを映す。けれども、そのきれいなものを鏡の前から取り除くと、鏡の中にきれいな何かが残ったかというと、何も残っていない。汚いものを映したからといって、鏡が汚れるわけではない。きれいな香りのする花を映したからといって、鏡に匂いが残るわけではない。しかも、鏡は物を映したからといって、増えもしなければ減りもしない。不増不減です。私たちの心もそうなのです。心も、きれいなものも汚いものも平等に映して、あとに何の跡形も残さず、増えたり減ったりするものではない。

心とはいかなるものをいうやらん 墨絵にかきし松風の音

 松風の音は絵に表現はできませんが、墨絵の上手な者の筆になると、いかにも松風が吹いていて、そこにサァーという音が伝わってきます。心とはそういうものだ。目には見えない、音にも聞くことができない。できないけれども、確かにあることはある。

達磨大師のところへ弟子の慧可が出掛けて行き、

 「我が心、未だ寧からず。乞う師、心を安んぜんことを-私はたいへん不安な状態です。とにかく心が落ち着かない。なんとなく不安でかないません。なんとか私のこの心を落ち着かせていただきたい」

といった。すると達磨大師が、

 「心を将ち来たれ。汝が与に安んぜん-そんなに不安ならば、その不安な心を一つここに持ってきなさい。そしたら安心させてやろう」

といわれた。慧可は、不安な心を持ってこいといわれたから、どうして持っていくことができるかと考えた。一所懸命考えてみたけれども、どこがどうという不安はない。その原因がわかれば、不安も解消されようが、自分が考えても何が不安なのかわからない。だから、「心をもとむるについに不可得なり」といったら、達磨大師が、

 「我れ、汝がために安心しおわれり」

といわれた。慧可はこういわれて、その一言で本当に安心してしまったということです。

 そんなことぐらいで、本当に心が安らぐのかと思いそうですが、人間はどういう一言で安心してしまうかわからないものです。私たちは今、そんな不安な状況にいませんから、そんなことぐらいでと思いますけれども、これは千四百年も前の話です。そのころの人間は私たちよりはもっと素直です。現代人は理屈っぽいわけですが、その理屈っぽさが、心を本当に素直に安定させることから遠ざけているということもいえます。
 ともかく、「汝が与に安心し竟れり」、慧可はその言葉を聞いて得心がいったのです。「心を将ち来たれ。汝が与に安んぜん」。その不安な心を持ってきなさいといわれて、改めてその自分の不安な心というものを観察してみたところが、「心をもと覓むるについ了に不可得なり」、これが不安な心なのですと、説明しても説明しきれない。水に映る月を持ってこいといわれても、持ってくるわけにはいきません。それと同じように、私たちの心そのものを、ここに持ち出しなさいといわれても、それは持ち出すわけにはいかん。不可得です。そうなると、元来ないものがどうして不安になるのか。ないのだから不安になることはないではないか。そこで、慧可はひらめいた。心とは、元来空なるものであるということに、慧可は得心することができた。「心は水中の月の如し」ということに気づいたのです。

 水も月も無心です。月は大きな盥の水にも映れば、小さなさかずきにも映る。どんな大きなものにも映れば、どんな小さなものにも映る。私たちの心もそうなのです。小さな鏡でも富士山を映すかと思うと、小さな虫をも映す。私たちの眼の玉も、こんなに小さいものですが、高いビルディングでも、道ばたの小さな石ころでも、何でも見ることができる。同じように、私たちの心も、大きなことも小さなことも思うことができる。ちょうど、月がどんなものにも影を宿すように、私たちの心もすべてのものに影を宿し、またすべてのものを水のように映す。そういう自由なはたらきを持っているのが心というものであり、しかもそれは没蹤跡、跡形を残さない。また不可得、掴まえどころがない。掴まえどころがないというと、頼りないようですが、掴まえどころがないからこそ自由なのです。それは空であるからです。実体がない。空というと、また頼りない感じを受けますが、空とは不二、二つではないことです。なぜ二つでないのか。自分がないからです。私が私が、という思いがあるのは空ではない。例えば、親は私が私がという思いなしに、子供を育てます。育ててやっているのだという思いがあるのは、本当の親ではない。親は子供を育ててやっているとも思わずに育てている。そこには自我がない。私が私がという思いがありませんから、子供と親とは不二なのです。

 自分がなければ、すべてが自分だということになる。だから空とは、むな虚しい頼りないものではありません。私たちの心も空なるものです。空で無心であると、相手の気持ちになることができる。空で無心であるから、ものごとを正確に判断することができる。何か凝り固まった心ができあがっていると、ものごとを正確に見ることができなくなります。隣の奥さんがどうも気にいらない、という思いをずっと持っていると、朝、出鼻に会ってニコッとされると、何か魂胆があって笑ったのではないかと見えてしまう。それは空でないからです。だから空であることが一番いいわけです。

心は水に映る月影のようなものであって、凝り固まった形というものはない。すべてのものに無心に影を宿し、そこに執着をしない。