禅語

フリーワード検索

アーカイブ

一期一会 『茶湯一会集』 いちごいちえ

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

12月を表す季節の画像

井伊直弼の『茶湯一会集ちゃのゆいちえしゅう』に出る有名な言葉ですが、直弼の独創になる言葉ではなさそうです。
遡ると、千利休の弟子、山上宗二の『山上宗二記』の中に、一期一会ということが説かれています。

道具開キ、亦ハ口切ハ云ウニ及バズ、常ノ茶湯ナリトモ、  路地ヘ入ルヨリ出ヅ
ルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏ルベシ、  世間雑談無用ナリ。

山上宗二は、茶の湯をする人たちの一つの心得として、とくに客人の心得として、この言葉を挙げている。この一期一会の茶会を強調し、力説するようになった人が井伊直弼ということでしょう。

一期とは、一生涯、一会とは、一度の出会いということ。「一期一会」、一生にただ一度の出会い、巡り合いということになります。とくにお茶会における根本の心得としていわれる言葉です。この茶会は一生にただ一度のお互いの出会い、巡り合いの会という心を持つことができるならば、自ずから亭主は亭主、客は客としての心得というものができてくることになる。

井伊直弼の『茶湯一会集』には、この一期一会の心得について、まことに行き届いた説明がなされています。

そもそも、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思えば、実に我一世一度の会也、去るにより、主人は万事に心を配り、いささかいささか麁末そまつなきやう深切実意を尽し、客も此会に又逢ひがたき事をわきまわきまへ、亭主の趣向、何一つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るべき也、是を一期一会といふ、必々主客とも等閑なおざりには一服をも催すまじき筈之事、即一会集の極意なり。)

仏教では「生者しょうじゃ必滅ひつめつ会者えしゃ定離じょうり」という。「会うが別れの始めなり」といって、会えば必ずいつか別れなければならないときがある。まことに一期一会です。今日のこの会は、もう再び巡ってはきません。一生に一度のものだ。今日集まった人々が、また一カ月後に全部元気に集まったとしても、今日の巡り合いとそれは同じではありません。すでに三十日分の歳をとっているからです。今日のこの出会いは再び巡ってはこない。しかも、平均寿命八十歳として一年三百六十五日で数えると、あと何日が人生に残されているでしょうか。その限りある一生の時間のひとときを、人々がご一緒するというのは、ありがたい巡り合わせでなくて何でありましょう。不思議といえば不思議な縁です。みんな違うところでお生まれになって、違う人生を歩んで、そしてどういうご縁があってか、それぞれの人生の貴重なひとときを割いて集う。そのひとときは、もはや再び帰ってこない。そう思うと、本当に一期一会、このひとときを大切にしなければならないという思いになります。

お茶の会だけでなく、何ごとも一期一会という気持ちで無駄にすることのない日々を過ごしていかなければならないと思います。結局、一時ひとときを三昧のうちに生きるということ。三昧とは、む無さ作のゆ遊げ戯、無心に遊ぶということです。
かつて山田無文老師に、「人生って何をするのですか」と聞いた青年がいました。そのとき老師は、「遊ぶんだね」と答えられました。遊ぶといっても、自分だけ楽しんで遊ぶということではない。無作の遊戯、観音さまのような遊びができれば本当に結構だと思います。何か人の喜ぶような遊びができると本当に楽しいし、充足感が得られるように思うのです。