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寒夜無風竹有声 耳聞不似心聞好 『江湖風月集』巻上 かんやかぜなくたけにこえあり にもんはしかずにしんもんのよきに

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

01月を表す季節の画像

『江湖風月集』という詩偈集に出る虚堂和尚の詩の一節です。虚堂和尚という人は、日本の禅門にとって大変大切な方です。大徳寺の開山は大灯国師ですが、その大灯国師の師は大用国師、鎌倉の建長寺に住山された方です。その大応国師が虚堂和尚です。こういう流れを受けて日本に臨済禅が伝播されたのです。虚堂和尚は中国人で、大応国師から日本人となります。この句が出る詩は「聴雪」と題される七言絶句です。

 

 

寒夜かんや風無く竹に声有り                              寒夜無風竹有声
疎々密々松櫺しょうれいとおる                   疎々密々透松櫺
耳聞にもんは似かず心聞しんもんきに                       耳聞不似心聞好
歇却けっきゃくす灯前半巻の経                                歇却灯前半巻経

 

寂然とした素晴らしい詩です。虚堂和尚は一流の禅匠であり、その上にまことに芸術に優れ、禅の趣きを含んだ詩を作るのにた長けておられた。素晴らしい詩をたくさん残されましたが、これもその一つです。

 

 

寒夜風無く竹に声有り
雪の降る夜というのは、人通りも少なくなり、小鳥たちもどこかの寝ぐらにもぐりこんで、天地まことに寂然として静かです。そこに聞こえるともなく聞くともなく、雪の降る気配がする。底冷えのする寒い夜。風もない。風もないのに「竹に声有り」。こういう表現がいいです。竹の葉や枝に雪が積もり、雪の重みで竹がしなる。そのしなる力で雪をはね返す。その音が聞こえてくる。それが「竹に声有り」です。
無心、閑寂な境地。天地寂然として声なき時、竹が雪の重みに耐えかねて、その雪をはね返す音のみが静かに伝わってくる。風がなくて静かだから、竹が雪を払う音がひとしおよく聞こえる。しかし、その竹が雪を払う音が聞こえるが故に、さらにこの世界が静かに思える。

 

 

疎々密々松櫺を透る
松が植えてある窓を通して、竹が雪を払う音がまばらに、また密接に伝わってくる。部屋の中にいて、他に音もないところにその音だけが聞こえてきますから、思わず耳をそばだててしまいます。

 

 

耳聞は似かず心聞の好きに
この雪の夜の静かな、寂然とした趣きは、耳で聞いただけではわからない。心で聞き味わうのに越したことはない。天然の音色というものは、心で聞かなければ味わえるものではない。
音だけではありません。天然の美というものは、肉眼で見るだけでは味わえない。やはり心で見るというところがないといけない。白檀や沈香の香りも、臭覚だけで香りをかいでもわかるものではない。心でにおってはじめて、その香りの味わいが味わえる。食物の味もそうです。いいお料理でなくても、本当にお母さんが子供のために作ってくださったものをおふくろの味といいますが、これは作ってくれたお母さんの心を受け取って、わが心の中で味わってこそ、本当の味がわかるのです。心の舌で味わわなければならない。眼も肉眼で見るだけではなく、やはり心の眼で見るところがなければならん。聞くことももちろん心の耳で聞く。それによって初めてものの味わいも音も色も香りも味わえるであろうと思います。「耳聞は似かず心聞の好きに」、耳で聞いただけではわからない。心で聞くに越したことはない。

 

 

歇却す灯前半巻の経
虚堂和尚は、灯をともして経典を読んでいたのですが、竹が雪を払うバサッという音に耳をそばだてて、竹の声と一つになってしまった。フッと我れに返ってみると、灯前に開いていた経典をいつの間にやら読むのを忘れて、竹の声に聞き入っていた。
寂然とした境地の中に自分が没入してしまっている、自己を忘却して静けさの中に浸っている、素晴らしい虚堂和尚の境地です。