奈良の若草山では毎年野焼きをします。
野焼きによって、私たちの目には草の姿は見えなくなりますけれども、春がくるとまた青々と草はも萌えい出づる。そういう自然の不滅の生命力をうたった白居易の詩です。
これもまた二通りの見方が出来ます。失敗をしても、悔やむことはない。「野火や焼けども尽きず、春風吹いて又た生ず」だ。今は冬の心境だが、必ず春がやってきて、青々とした草がまた生えてくるように新たな展望が必ず開けてくる。「朝の来ない夜はない」と。このほかに次のような受け取り方が出来ます。
野焼きで草がなくなるように、煩悩というものはそう簡単になくなるものではない。ぬくぬくした春風が吹いてくると、また煩悩の芽が萌え出づる。煩悩というものは簡単に断絶できるものではないし、必ずフイフイと生まれ出てくる。だが何時とはなしに消え去るものでもある、その繰り返しである。
この世界に存在するものはすべて空だ。しかし、空は何もないことではない。冬になると木が枯れて、葉は一枚もなくなるけれども、春になるとその木から芽がおのずから出て、それが成長して葉になり、あるいは花をつける。それならばと、その木を割ってみても、中に葉の形をしたものや花がたくさん詰まっているとかいうことはない。木の中を見ても、葉も花も、空だ。だが、その空なるものからすべてのものが出てくる。
野焼きで焼き払い、草はなくなり、空に還ったけれども、条件が調い、因縁が結ばれると、その空からまた新たな草が発生してきます。そのように絶えることのない生死の営みを、実は空というのです。その空の姿をうたったものとしてこの語を受け取ります。
禅語
野火焼不尽 春風吹又生 白居易「賦得古原草送別」/『虚堂録』巻一 やかやけどもつきず しゅんぷうふいてまたしょうず
『床の間の禅語 続』
(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より