
これは誰の句かわかりません。唐代も過ぎて宋の時代になると、集句ということが盛んに行われるようになりました。人の言葉を集めて詩を作る。起承転結すべて古人の言葉をあちこちから引っ張ってきて、新しい詩を作る。王安石いう人はこの集句の名人だったそうです。王安石は宋の神宗皇帝の時に用いられて宰相をやった政治家ですが、また詩人でもあります。博覧強記で、もの覚えがいいから、人の言葉がみんな頭の中に入っている。その王安石が「風定まって花猶お落ち」という古人の句に、「鳥鳴いて山更に幽なり」という、また別の古人の句を綴り合わせて集句したのがこの句だといわれています。
一つ一つは古人の句であるけれども、これをくっつけ合わせることによって、元の句よりもさらに詩としての意味合いが深まる。ここに集句の意味があるのですから、単なる盗作というものにはなりません。元の言葉よりもさらに深まった意味合い、重厚さが増すことが集句の妙です。
風定まって花猶お落ち、鳥な鳴いて山更に幽なり-風が吹いていて花が落ちるのは当たり前です。しかし風は微動だにしないのに、椿の花か何かがポトンと落ちる。それだけでは単に状況を歌っているだけですが、そのあとに、「鳥鳴いて山更に幽なり」と続く。鳥がピーともカァーともいわないのも静かです。けれども、そこに一声、雉がケンと鳴くと、静けさがさらに静かになる。このあとの句がついたことによって、前の句の意味合いが深まってきます。
風が吹き止まっただけでも静かなのに、そこに椿の花一輪がポトンと落ちる。単なる静けさではない。静けさの中に動きがある。動いているのに騒がしくない。何も動かなくて静かなのは当たり前ですが、動きがあって、しかも静かだ。「動中の静、静中の動」、この境地をよく表現したものであるとして、古来、禅者はこの言葉をたいへん褒めるわけです。
「一鳥鳴かず山更に幽なり(一鳥不鳴山更幽)」という言葉もあります。雀がチュンともいわない。それほど静かなのだけれども、「鳥鳴いて山更に幽なり」といったほうが動きがあって、温もりがあって静かです。こういうのを「動中の静、静中の動」といいます。
動きのあるのが天然自然の原理です。私たちの心もそうです。何も思わずにボーとしているのは静かであるかもわかりませんが、それは本当にボーとしているだけのこと。それがいいのではない。やはり花を見てはきれいだと思い、月が出ると降り仰いでめ愛でる。静かな中に、一つの心の動きというものがあって初めて、心は静かであるといえるのです。