
-尋常一様窓前の月、纔かに梅花有れば便ち同じからず-
窓から眺める月の景色、どの窓から見ても同じ月です。ビルの窓から仲秋の名月を眺めても、あるいは信州の山奥の藁葺きの家の窓から眺める仲秋の名月も、どこも名月に変わりはありません。同じである。しかし、そこに一輪の梅の花が窓辺に枝をのぞかせて、名月のあたりにかかっていると、風情が変わります。絵になってくる。月だけが輝いているのも、それはそれでいいのですが、眺める窓際に一輪の梅の花があると、景色としての趣きがガラリと変わり、香り高いものになってくる。
人間も鼻は一つで目は二つ、口は一つで耳は二つ、みんな同じようについています。それは同じですが、やはりその人なりの味わいというものは違います。その味わいの違いは何か。「纔かに梅花有れば便ち同じからず」です。もし芳しき梅の香りがするようなものがその人にあると、同じ二本の手、同じ二本の足だけれども違った感じがする。
同じ人にしてもそうです。日によって何か違うふうに感じるときがある。その人にわずかに何かがあれば、そこに何かが添えられるならば違って見えます。女性の方なら洋服を召されるとき、ちょっとしたブローチをつけるかつけないかでコロッと雰囲気が違ったり、あるいは口紅をつけるかつけないかでも雰囲気が変わる。そういうことが私たちの心の世界にもあります。いいものを添えるとよくなるでしょうし、悪いものが添えられるといい感じではなくなる。ちょっとしたことによってコロッと変わってくる。そのちょっとしたことが何か、ということが大事になってきます。
「千江水有り千江の月、万里雲無し万里の天(千江有水千江月、万里無雲万里天)」という禅語があります。雲がないときは、月はあらゆる川という川に姿を映す。全世界は輝いて見える。しかし逆に「万里雲無し万里の天」、一点の雲もなく、見渡す限りカラッとして何もない。空に一点の雲もないということは、私の心の世界にも一点の雲も起こっていないという状態。しかし、その状態だけがいいかというと、そうはいきません。何の思いも起こらないということでは、日常生活ができません。そこで、一点の雲もない、無心な心から、豊かな心を起こしてこなければなりません。「千江水有り千江の月」です。どの川にも月という光り輝くものが、みんな輝いているではないか。そういう世界に出てこなければいかんわけです。すべての川に月が輝いているように、この世界に存在するすべてに輝きがある。木には木の輝きがある。草一本にも草としての輝きがある。そういう眼で見られる人は、まことに幸せな人です。そういう眼はどうして具わるか。「万里雲無し万里の天」、迷いの雲がひとかけらもない無心な心によるのです。そういう心で世界を見ると、この世界に存在するすべてのものが、それなりに完全で輝いて見えてくる。
輝いて見られないのと、輝いて見られるようになるのと、どこが違うかというと、「纔かに梅花有り」です。ちょっとした妄念の雲が、ひとかけらでもあるかないかの違いです。ひとかけらの妄念でもあると、「千江水有り千江の月」という見方ができなくなってしまうのです。