
うららかな太陽の陽ざしを和やかに浴びている春の景色。「高下無く」とは、その春の陽ざしは、万物すべてに平等に降りそそぐということ。金持ちの家にはよく降りそそいで、隣の貧乏人の家にはちょっとにしておくという春の陽ざしはない。すべて平等。そこに差別はない。
しかし、「花枝自ずから短長」、花の枝々にはおのずから長いものと短いものとがある。同じように降りそそがれる太陽から、同じようにその恵みを頂戴しているけれども、花の枝によってはどんどん伸びるものがあるかと思うと、短く成長してしまうものもある。同じ梅の木でも、南を向いた枝と北を向いた枝とでは、違いが現われてくる。けれども、短いものも長いものも、天然自然の恵みは平等に受けている。短いものが長いものより劣っているということではない。短くてもそれなりに完全、長くてもそれなりに完全。
背の高い人もあれば低い人もあるけれども、低い人は恵みがなかったということではない。すべての人に太陽の光が同じようにそそがれるように、私たちは生まれながらにして、みんな同じ仏心を戴いている。
そうしてみると、背の低い者は低い者で完全なのだ。背の高い人は高いままで完全なのだ。高いのは高いのでいいし、低いのは低いのでいいのだ。これを別な言葉で「長者は長法身、短者は短法身(長者長法身、短者短法身)」、長い者は長い仏さん、短い者は短い仏さんだ、といいます。すべては区別あるまま平等に充たされて、個性に輝き調和の世界を出現している。