
司馬遷が著したとされる漢代の史書、『史記』に出てくる有名な言葉です。
桃李言わざれども、下自ずから蹊を成す
桃や李は口がないから、何も口に出してしゃべりません。しかし、桃や李のきれいな花や、おいしい実があれば人がやってくるから、自ずとそこに道ができる。桃の赤い花と、李の白い花の色が入り乱れて咲き、その下を人々が春の陽ざしを浴びて楽しげに往来している。こういう平和でのどかな田園風景を歌っています。
司馬遷が李広という将軍のなかなか立派な人柄を褒めるために、当時の諺を引いて、この言葉を用いたということです。「桃李言わざれども、下自ずから蹊を成す」ということがあるが、李将軍も寡黙な男だ。寡黙ではあるけれども、この将軍には何ともいえない桃か李のような魅力があり、人生の結実した徳があるので、人々がみなそれを慕ってやってくる。人々がやってくると、その人々を通して人脈が自然にできてきて、人の輪が広がっていくではないか。徳のある人物は、言葉を出さずとも、無言のうちに人を心服させることがある。
その徳を慕って人々が集まってくる。
こういう意味の言葉ですが、これに禅の光を当てると、「人境倶不奪」の境地に受け取れるのです。人は桃李です。これは何もいわない。いわないけれども、咲き乱れる花を見に、あるいは桃の実、李の実を求めて人々が自ずからやってくる。春の陽ざしを浴びて自ずから人々が集まって、調和の世界をそこに現出する。人も桃も李も、それぞれがそのままで、お互いがお互いを抱き合って、調和していく。これが「人境倶不奪」です。