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池成月自来 『虚堂録』巻二 いけなってつきおのずからきたる

『床の間の禅語 続』

(河野太通著・1998.04 禅文化研究所刊)より

10月を表す季節の画像

 池成って月自ずから来たる―  池ができあがれば、月は必ずその水に宿る。心の池が整えば、そこに必ず仏心の月は輝くのだ。

 心という池を持たない人間はいません。しかし、私たちのその心の池が、どこか底漏れがして水が涸れ、池の底にガラクタがあるようだと、いくら空に月が輝いていてもその池に月影を映すことはありません。しかし、人間の心の池には本来、満々と水が湛えられている。湛えられている水とは何か。それは人間性といわれるものです。私たちは叩かれれば痛いし、嬉しい悲しいと感じる心を持っている。それが人間性というものです。その人間性という水を湛えているならば、必ずその水に仏心の月は自ずから輝き出す。これが「池成って月自ずから来たる」ということです。

 類語に「雲破れて、月、池に来たる(雲破月来池)」という言葉もあります。夜空一面に覆っている雲がちぎれると、そこから必ず月は池の面に影を宿します。そこにちゃんと水がありさえすれば、月影を遮る迷いの雲というものがちぎれれば、必ず月は輝く。

 「花開けば蝶自ずから来たる(花開蝶自来)」という言葉もあります。蝶を求めなくても、花が咲いてさえおれば、どこからともなくちゃんと蝶はやってくる。心の花が開いてさえおれば、必ずそこに麗しき人々がやってくる。『論語』に、「徳は孤ならず、必ず隣有り」という言葉がありますが、人徳を養っておりさえすれば、一人ぼっちで孤独ということはない。人徳のある人には必ずよき隣人ができるものである。徳のある人は孤立することはない。花が咲き、よい香りを放つと、求めなくても蝶や虫が慕い寄ってくるように、その人物の徳を慕って人々はやってくるものであるということです。