「婆子焼庵」、古来、坐禅の上のやかましい問題になっている公案に出てくる語句で、その前後を記すと次のとおりです。
昔、婆子有りて、一庵主を供養して、二十年を経る。常に一の二八の女子をして飯を送って給侍せしむ。一日、女子をして抱定せしめ、「正恁麼の時如何」とい曰わしむ。主曰く、「枯木寒巌に倚り、三冬暖気無し」。女子、婆に挙似す。婆曰く、「我れ二十年、祇だ箇の俗漢を供養し得たり」。遂にお遣いい出だして庵を焼却す。
婆子というと、日本では女性のお年寄りのことですが、中国では必ずしもそうではなく、既婚の女性をいう。若いお嫁さんもいれば、本当に年のいったお婆さんもいる。
昔、一人の婦人が、ある庵主を供養していた。庵主というと、日本ではたいてい尼さんのことを指しますが、中国では尼さんとは限りません。この場合は男の庵主です。
一人の婦人が、ある修行僧に修行に打ち込めるようにと庵を提供した。そうして20年が経った。その女性は二八の女子、16、17歳の妙齢の娘に常に食事を運ばせて給仕させていたが、ある日、この修行者の修行の程度を試してみようと、娘さんに、「今日、坊さんのところへ食事を持って行ったら抱きついてみなさい。そして、どんな気持ちがなさいますかといってみなさい」と命じた。こう命じられた娘が庵へ行って、そのとおりにした。
すると修行者は、「枯木寒巌に倚り、三冬暖気無し」-枯れ木が寒い岩の上に突っ立っており、初冬、中冬、冬末がいっぺんに全部やってきたようなもので、もう冷えきっていて、温もりなぞひとかけらもない。と冷然と突き放してかえりみなかった。そのことを娘が婆子に報告すると、婆子は、「我れ二十年、祇だ箇の俗漢を供養し得たり」-ああ、わしはそんなつまらん俗物を20年間も大事に庵に住まわせ、無駄な供養をした。
といってその修行僧を追い出して、その庵に火をつけて焼いてしまった、というのです。
そこで、君たちならば、どうその娘に対応するか。その時どう対処したら、供養のしがいがあったと婆子を満足させ得たか、これが問題です。もしここで、婆子に庵を焼かれずにすむ対応ができたら、私たち人間に常につきまとう色気や名利の現実にも対処できるのではないか。若い娘に抱きつかれてそのままその誘惑に溺れていったら、それこそただの俗物に過ぎないということで、誘惑にその僧が負けなかったのは悪いことではないはず。それなのに、婆子はなぜ追い出してしまったのか。
「枯木寒巌に倚り、三冬暖気無し」という境地は、やはりいっぺんは味わう必要がある。「生きながら死人となりてなり果てる」というところがなければならない。
しかし、大乗仏教からすれば、それは小乗阿羅漢ということになります。仏や菩薩になる一つ手前の段階で、大乗菩薩のものではない。「枯木寒巌に倚り、三冬暖気無し」、寒々と冷えきった岩の上に枯木がつっ立っている冬の真っただ中で、一点のぬくもりもない。一切の欲望を断じて、喜怒哀楽の人間的ぬくもりを捨てきった境地で、清らかではあるが、五欲六塵の風に吹きさらされている衆生の済度は、思いもよらないことである。
人は、みんな五欲六塵をかかえている。財欲、色欲、名誉欲、飲食欲、睡眠欲の五つの欲。眼・耳・鼻・舌・身・意の対象となる六つの塵です。この六つの感覚器官を通して欲望が生じ、心に迷いが起こるから、その対象となるものを塵という。この五欲六塵の風が吹きさらしている中を私たちは生きているわけです。小乗阿羅漢、欲望を全部なくしてしまいっぱなしの人は、自分だけが清らかになっているだけですから、そういう五欲六塵の風の中で悩んでいる衆生の悩みがわかりません。わからないから救いようがないのです。
三代将軍徳川家光の帰依を受けたのが、沢庵禅師(宗彭・1573~1645)です。家光は沢庵禅師を開山として、徳川家の菩提のために東京の品川に東海寺を建てましたが、この寺に、沢庵禅師が書いた「枯木倚寒巌」という五文字の立派な軸があります。みごとな一行書です。
枯れた木が冷え冷えとした岩の上に一本突っ立っている。まことに温もりのない凄絶とでも表現していい景色です。「大死一番、絶後に蘇る」、やはり本当に死んでみなければ、本当に生きられない。「古人は死して活せず、今人は活して死せず」というが、まさに「枯木寒巌に倚る」という死にきった心境というものを本当に会得しておかなければいけない。そのような思いをもって書かれたものかもしれません。沢庵禅師は、有名な紫衣事件により一度は幕府から島流しに遭った方です。そもそも大山名刹に近づくことを嫌った沢庵であったが、幕府の要職にある柳生但馬守宗矩の剣の道に大きな影響を与えたことから、ついに徳川家光の帰依を受けるということになり、権勢に近づいてしまったのです。やはり徹底して死にきっておかないと、人間とはどこでくだらないことに出くわすかわからない。そういう体験による、沢庵自身の反省があったのではなかろうか。
「枯木寒巌に倚り、三冬暖気無し」。寒々とした岩の上に枯れ木が立っている。まことに枯淡な心境です。冬の真っただ中、一点の温もりもない心境。この心境の美点と、まだ至らない点との二通りを思いながら、この言葉を味わうとよろしいと思います。