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庭樹不知人去尽 春来還発旧時花 (唐詩選) ていじゅはしらずひとさりつくすを、しゅんらいまたひらくきゅうじのはな

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』

(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

02月を表す季節の画像

唐の詩人、岑参しんじんが漢代に河南省丘県に造営されたり梁園りょうえんという宮苑の廃墟の一角に建つ山房からの感慨を吟じた「山房春事さんぼうしゅんじ」と題する詩があります。

 

梁園日暮乱飛りょうえんにちぼらんびからす

極目蕭条きょくもくしょうじょうたり三両家さんりょうけ

庭樹ていじゅは知らず人去ひとさくすを

春来還しゅんらいまひら旧時しゅんじの花

 

「春事」とは春の思い、「極目」とは見渡すかぎり、「蕭条」とはものさみしい様子の事です。

 

梁園の旧跡は日暮れが近づいた。乱れ飛ぶ鴉の群、見渡す限り何かしら物さびしく、ただ二、三軒の民家があるばかりです。昔の面影は何処にもない。しかし、庭の木々は、昔の人がすべて亡くなった事を知らぬげに、春ともなれば昔のままに又、花を咲かせている……。

 

この句は大自然の悠久さと、人間の生命のはかなさを対峙させて、人生の無常を詠嘆した句として有名です。

 

しかし、人生の無常を詠嘆するだけでは禅ではありません。無常の厳しさから私達の人生のあり方を学ぶべきです。それでこそ、この句が禅語としての価値を持つのです。

 

毎年咲く花にも、散り方がいろいろとあります。蕾のままに散る花もあり、咲いてもしぼんだまま散る花もあり、咲き切って花びら一つ残さず散る花もあります。

 

人の死に方にもいろいろあります。天災はもとより、事故で死ぬ人もあります。ポックリ死んで行く人もあれば、悶え苦しんで死んで行く人もあります。

 

 

私達も何時、何処で、どんな形で死がやって来るかも知れません。それを恐れてビクビクしていてはせっかくの人生、無駄に終ってしまいます。

 

どう生きるか!

 

『朝日新聞』の「声」のページに一つ答えが出ていました。「生きることをまず考えたい」と題する赤上さんの投書です。

 

私は骨髄異形成症候群という病気になり骨髄移植を受けました。一年半前のことです。一年間の長い入院生活の中で学んだことはたくさんあります。

その中でも人間はいつか死ぬんだな、と知ったことが今の私の生き方を支えています。病気をしたことで私の人生は他の健康な人より、短いかも知れません。でも人生の中身が充実していれば、長いか短いかなんて関係ありません。常に夢や希望で頭の中をいっぱいにしています。考え方は前向きです。

だれだって死ぬのは怖いけれど、自分の生き方に満足していれば、死ぬことに対して割り切って考えられると思います。死への教育よりも、いかに生きている間に、充実した生活を送るか(クオリティー・オブ・ライフ)が大切です。ただ流されて生きるのではなく、自分の希望をしっかり持ち、毎日毎日を大切に生きたいものです。

死ぬことよりも、まずは生きることが大切です。自分なりの、生きていく方法を知れば、自然に死も知ることが出来ます。教育されて死は知るものではなく、生活の中から自分で得るものと思います。死を知っている私は今を大切に生きています。(平成8年4月23日『朝日新聞』より)

 

諸行は無常です。形あるものは壊れ、命ある者は亡ぶ、しっかり心に銘ずべしです。