禅語

フリーワード検索

アーカイブ

一翳在眼空華乱墜  (景徳伝灯録) いちえいまなこにあればくうげらんついす

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』

(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

03月を表す季節の画像

景徳伝灯録けいとくでんとうろく』の芙蓉霊訓ふようれいくん禅師の章にある話です。

霊訓禅師、初め帰宗きす和尚に参ず。問う、「如何なるか是れ仏」。宗曰く、「我汝に向かってわん。汝、還って信ずるや否や」。師曰く、「和尚、誠実の言を発せば、何ぞあえて信ぜざるや」。宗曰く、「汝に即すれば便ち是なり」。師曰く、「如何が保任ほにんせんと」。宗曰く、「一翳眼いちえいまなこに在れば空華乱墜空華乱墜くうげらんついす」と。

 

帰宗和尚とは唐代の禅僧で馬祖道一禅師の法を嗣いだ人、保任とは保証する事。一翳とは眼に小さなゴミが入った状態を云います。空華とはかすんだ目で空を仰ぐと、チラチラと花があるように見える事から煩悩によって起こる妄想を意味します。

 

霊訓和尚が未だ若僧の頃、帰宗和尚に参じて問います。「いったい仏とは何でしょうか」と。帰宗和尚、答えます。「それは簡単な事だ、教えてあげよう。しかしお前さん、私の云う事を信じるかね?」。まだ若い霊訓禅師は、生意気にも、「貴方が本当の事をおっしゃれば信じます」と云い返します。帰宗和尚、「お前さんが真実と思えばよいではないか」と諭しますが、霊訓禅師は師に参ずるという事がまだわかりません。「真実である事を誰が保証しますか」とただ質します。帰宗和尚、これは駄目とばかりに、「一翳眼に在れば空華乱墜す」と一喝します。

 

師に参じての禅問答は議論を戦わすのではありません。両者、全人格をぶっつけ合っての商量なのです。ごちゃごちゃ、くどくど余計な議論をしている間はないのです。一句一句が生命をかけてのぶつかり合いでなければならないのです。この議論こそが一翳となって空華乱墜す! なのです。文字通りの戯論に終わってしまっては、いつまでたっても「仏」の意を悟り去る事は出来ないのです。このようにどんな些細な事でも一つの事に執らわれの心を持てば、次から次へと糸を引き連々と思い煩うのです。それを「一翳眼に在れば空華乱墜す」と云うのです。

 

面白い昔話があります。

 

ある和尚が伴僧(小僧)を連れて檀家の法事に出かけます。誦経が終わり、お膳が出ておとき(食事)の席になります。伴僧は和尚のする通り箸をとり、吸物を飲みます。和尚は何げなく伴僧の方に目をやり、飲んでいる吸物の椀の中を見ます。ところが和尚の吸物の椎茸より伴僧の方が太くて立派な椎茸が入っています。それを見た和尚は、「あの大きい椎茸が和尚である自分の方に来るべきで、この小さい方が伴僧に行くべきだ」と思います。

 

食事も進みお茶も出されて終わりに近づきますが、どうしても心中、穏やかではありません。しかし、口に出しては大和尚の品位にさしさわる。しかし……。

 

いよいよ帰宅の時となり、挨拶を交わして玄関までやって来ます。下駄を履こうとすると、脱いだ下駄が見当たりません。伴僧をにらみつけて開口一番、「俺の椎茸は何処に行った」と……。

笑えない話です。「一翳眼に在れば空華乱墜す」の端的です。