無一物とは、宇宙に存在するすべての有形のものは、すべてそれぞれ自体実存するものではなく、因縁によって所成したもの、空である、即ち本来無一物というわけです。
その無一物を、達観した心から眺める消息が無一物中となるわけです。要するに、執すべき何物も存在しない絶対的な「無」の澄み切った心を持つということです。
よく、それは明鏡にたとえられます。鏡は月が来れば月をそのまま写し、花が来ればそのまま花を写し、楼台(塔や城)が来ればそのまま楼台を写します。しかも花を好むのでもなく月を嫌うのでもなく、楼台に未練を残すのでもなく、直ちに写し、直ちに消えて、何のかたよりもなく、何のこだわりもありません。無限に続く自由自在の心ですから、無尽蔵とい
うわけです。
千手観音がたった一手でも心を奪われたら他の九百九十九手はその瞬間にあって、なきが如きも同然であり、一所に止めない明鏡のような境涯にいて初めて、千手ことごとく、必要に応じて動作し役立つと云われます。
沢庵禅師は柳生宗矩剣の達人となる為に「不動智」を得よと教えています。
不動と申し候いても、石か木かのように、無性なる義理にてはなく候。
向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ、心の動きた度きように動きながら、そつと卒度も止まらぬ心を、不動智と申し(『不動智神明録』)
と自由自在に動きながら少しも留まらぬ心を不動智と説明しています。これもまた、無一物の消息です。
同じ沢庵禅師から教えを受けた宮本武蔵はもう少し実践的になります。
目の付やうは、大きに広く付る目也。観見二つの事、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。
敵の太刀をしり、いささかも聊敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事也。工夫有べし。
この此目付、ちいさき兵法にも、大きなる兵法にも、同じ事也。目の玉うごかずして、両わきを見る事肝要なり。(『五輪書』)
観とは心で観る事、見とは肉眼の目で見る事。兵法では目配りを大きく広くする事が肝要です。心で観る、即ち目を特定のものに向けないで、周囲のすべてを瞳に映さなければいけない。さすれば、すべてが遠近もなく、強弱もなく、濃淡もなく、すべく平等に見る事が出来、周りの動きに直ちに対応できるというのです。
私達もどこ[何処]かに心を止めていては無尽蔵の働きはできません。無一物だからこそ無尽蔵に自由自在に働く事が出来るのです。
交通戦争と云われる昨今、自動車を運転するのも大変です。通行人、自動車、電車、信号、標識等、前後、左右、ありとあらゆる所に気を付けて運転しなければなりません。それらの一つ一つにすべての注意を払い、しかもそれを一つ一つ次から次へと忘れていかなければなりません。その一つに気を止めるようなことになれば、たちまちにして大事故につながります。
心が澄み切っているが為に、花は花と、月は月と、楼台は楼台と、ありのままの姿を正しく見ることが出来、時に応じて適切な行動がとれるのです。無一物中無尽蔵、いい言葉です。