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老来仏法都忘却 独立閑庭数落梅 ろうらいぶっぽうすべてぼうきゃくす、ひとりかんていにたちてらくばいをかぞう

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』

(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

05月を表す季節の画像

老来仏法都て忘却す、独り閑庭に立ちて落梅を数う

京都の西田哲学の後継者と云われる居士の集団FAS協会や、茶道の心茶会を主宰された、久松真一ひさまつしんいち博士が好んで書かれる語です。「老来仏法都て忘却す、独り閑庭に立ちて落梅を数う」。閑庭とは静寂な庭の事です。

すっかり年を取っておいぼれたわい! 昔、仏法に志を立てて以来、雪霜辛苦、人知れず泣きの涙で苦労艱難、修行に修行を重ねて、練りに練り、鍛えに鍛えて、二十年、三十年、もう修するに修するの道もなく、学するに学するの法もなき所に至ったが、その学んだ法も、修した道も、成した悟りもすっかり忘れてしまった。元のもくあみ、近頃はボケてしまい、訪ねて来る人とてないので、退屈しのぎに、庭に下りて落ちた梅でも数えている毎日だ!というわけです。

特に「落梅を数う」、ここに着目すべきです。未だ青い未熟の梅を無理して落とすのではありません。梅は熟せば自然に落ちます。落ちた梅を数えるところに、老来の仏法をすべて忘却し、安心に徹し切った消息を看てとらねばなりません。

この句は悟りだの、仏だの、禅だのという臭みを抜け切った、平々凡々、まことに愚の如き、好々爺の境涯より、むしろ、独り閑庭に立って落梅を数える処、悠々閑々、ゆったりとした安心そのものの消息を云おうとしているのではないでしょうか。

戦国の三武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格を喩えて有名な逸話があります。信長は「ホトトギス、鳴かんずんば、殺してしまえ」と命じ、秀吉は「ホトトギス、鳴かずんば、鳴かせて見せよう」と云い、家康は「ホトトギス、鳴かずんば、鳴くまで待とう」と悠々と構えたと云われています。鳴くまでじっくり待つ所、老来、仏法をすべて忘却し去って、愚の如く、落ち梅を悠々と数える消息と似ています。

近頃の社会は余りにも忙がしすぎます。落ちつくひまがありません。「忙」と書きます。「心をうしなう」と云う意味です。私達は忙がしさにまぎれて、人間の心を失っています。そして何かにつけて、「もっともっと」「より大きく」「より多く」と、欲から欲へと欲望が膨張して行くから走りまわらねばなりません。しかし、中々それは満たされる事がないので、い
つもイライラ、ソワソワ、安らぎがありません。自分なりの人生、自分なりの生き方をしっかりと掴んで、他人の目を気にしない、鳴くまで待とうと、ゆったりとしたマイペースで、悠々閑々、自適に人生を送りたいものです。

「老来仏法都て忘却す、独り閑庭に立ちて落梅を数う」の語に参じて、静かな心を取りもどしたいものです。

落ち着きのない人間は現代人だけでもなさそうです。

江戸時代後期の真言宗の僧侶、慈雲飲光じうんおんこう尊者(1718~1804)に「小人行しょうにんこう」、即ちつまらぬ人間の生きざまを描いた詩があります。
その意訳です。

立って歩けば気もそぞろ
右に左にきょろきょろと
追われる者にさも似たり
坐ってもなおそわそわと
膝こきざみに貧乏ゆるぎ
駆り立てらるる身の動き
臀絶えまなくもじもじと
動いてやまぬ何ゆえか
尿意に堪えぬごとくなる
(昭和59年10月12日『中外日報』参照)

 

もう一度、じっくりと、「独り閑庭に立ちて落梅を数う」の句を味わってみようではありませんか。