『碧巌録』第四十三則にあります。
挙す。僧、洞山に問う、「寒暑到来す、如何が廻避せん」。山云く、「何ぞ無寒暑の処に向かって去らざる」。
僧云く、「如何なるか是れ無寒暑の処」。山云く、「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」。
「闍黎」とは阿闍梨の略で僧の尊称、ここでは、「お前さん」という程の意。「殺」は意を強める助辞、ゆえに、「寒殺」「熱殺」は寒さに成り切る、熱さに成り切るという意。
云うまいと思えど今日の暑さかな
暑い時には何をしても暑いものです。寒い時も、
こたつにはやはりこたつの寒さかな
で、やはりどうしても寒いものです。
一人の僧が中国曹洞宗を開いた洞山和尚(807~868)に問います、「寒暑到来す、如何が廻避せん」。洞山和尚答えます、「何ぞ無寒暑の処に向かって去らざる――寒暑のない処に行ったらよいではないか」。僧、更に問います、「如何なるか是れ無寒暑の処」。洞山一喝して云います、「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す――寒い時には徹底的に寒さに成り切り、暑い時には徹底的に暑さに成り切る」。
寒さ暑さを相対的にとらえて比べるゆえに、悩みや苦しみがあるのです。それに成り切ってしまえば、それを感じる自己もなくなり、吹雪の山野でスキーを楽しんだり、炎熱の球場で野球に熱中する時のように、寒暑の中にあっても寒暑を感じないと云うのです。
しかし、この話は「寒さ」「暑さ」の話ではありません。「生」と「死」の問題です。
「寒暑到来す、如何が廻避せん」とは、生死の一大事に直面した時、どうすればそこから脱する事が出来るかと云う問題です。
「無寒暑」、生死のない世界などあり得ません。洞山和尚は生きる時は「生」に、死ぬ時は「死」に徹し切ることが生死から逃れる道だと云うわけです。人間は生まれた以上死んで行かねばなりません。その死にもポックリ死んで行く人もあれば、もだ悶え苦しんで死んで行く人もあり、天災はもとより、
事故の人災で死ぬ人もいます。どのような死に方にせよ、死は死に徹して、即ち、死にまかせ切って死んで行けばよいのであって、「恰好よく死のう」などと思う必要はありません。要は寒暑、即ち生死に徹し切れるかどうかが問題であって、苦しみ悶えて死ぬ事も、死に徹し切れば、それもまたよいと云うわけです。
良寛和尚は、「生きる時は生きるが宜しく候、死ぬ時は死ぬが宜しく候」と、苦しい時には苦しいにまかせ、死ぬ時には死にまかせて何のはからいも施す事もなく、「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」と辞世の句を漏らして静かに息を引きとります。
博多の仙厓和尚は、「死にともない! 死にともない!」とつぶやきながら死んで行きます。
私達も、何時、死がやって来るかも知れません。いつ来てもいいように、心の準備だけはしておきたいものです。