天何をか言わん哉、四時行なわれ、百物生ず
『論語』の陽貨第十七にあります。
子曰く、「予れ言うこと無からんと欲す」。子貢曰く、「子、如し言わずば、則ち小子何をか述べん」。子曰く、「天何をか言わん哉、四時行なわれ、百物生ず。天何をか言わん哉」。
ある時、孔子曰く、「私はもう何も云いたくない」。すると子貢曰く、「先生が何もおっしゃらないとなれば、私は何を学べばいいのでしょうか」。
孔子曰く、「あの天を見なさい。我々が口先で何を云ってみたとしても、所詮、絵に画いた餅ではないか。それに比べて天は何を云うのだろうか。天は何も云わない」。ただ黙ったままです。黙ったままに、春夏秋冬の四季を休みなく運行し、春になれば春風を呼んで花を咲かせ、夏には夕立を降らせて涼風を送る。秋には秋風を起こして落葉を誘い、冬には北風を吹かして雪を降らせ、それぞれに諸々の生物を育み、実をならします。
何とすばらしい事ではないか、何と偉大な事ではないか、天の不思議な「力」を感じずにはおれない! というわけです。
天何をか言わん哉 四時行なわれ 百物生ず
ただ、不言実行の徳を讃えたと見るだけでは、この句に参じたとは云えません。もう一歩進んで、私達は自分の力で生きているのではなく、天の大きな力で生かされていると感得して初めて、この句に参じたと云えるのです。
今年で生誕百年を迎えられる山田無文老師は現代を代表する大禅者です。その臨終の折、大きく欠伸をして、弟子達が読む経文の最後の鈴で息を引きとられたと聞きます。大安心に住して、「ヤレヤレ」と云った処でしょうか。
しかし、その老師も若い頃に胸の病で長い闘病生活を強いられ、ついには死をも覚悟された事があります。ある初夏の日、病床から縁側に出て、一陣の清風に吹かれた折の述懐です。
生まれてから二十年もの長い間、この空気に育てられながら、この空気に養われながら、空気のあることに気がつかなかったのである。わたくしのほうは空気とも思わないのに、空気のほうは寝てもさめても休みなく、わたくしを抱きしめておってくれたのである。と気がついたとき、わたくしは泣けて泣けてしかたがなかった。
「おれは一人じゃないぞ。孤独じゃないぞ。おれの後ろには、生きよ生きよとおれを育ててくれる大きな力があるんだ。おれはなおるぞ」と思った。人間は生きるのじゃなくて、生かされるのだということを、しみじみ味わわされたのである。わたくしの心は明るく開けた。そしてつたない歌をくちずさんだことである。
大いなるものにいだかれあることを
けさふく風のすずしさにしる
(禅文化研究所『わがこころ[精神]のふるさと[故郷]』参照)